《あるとき一念に伴はれて角海老に遊んだ次の朝一念は居続けするといふので蒲団かぶつて相方とさし向ひでうまさうに豆腐か何か食つてたから自分は独り茶屋へ帰つてその二階からしばらく往来を見て居た するとその時横町から出て病院へでも行くのであらうと思はれる女が二人頭は大しやぐま、美しき裲襠着て静かに並んで歩行く後姿に今出たばかりの朝日が映つて竜か何かの刺繍がきらきらして居る これを見て始めて善い心持になつた 吉原で清い美しい感じが起つたのはこの時ばかりだ》
奥田:「一念」ということは、まさに二十七年頃かもしれない。寝たきりの状況になって、朝日に映る清く美しい女性の姿を思い出しているのが、また切ないなあ。
清く美しい女性の姿といえば、僕は芍薬の花が大好きなので、気になった句がありまして。これはどう解釈したものだろうと。
芍薬は遊女の知らぬさかり哉
夏井:「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」の美人の形容でよく知られる芍薬。確かにこの句は、いろいろに解釈できそう。
奥田:まず、芍薬が一番の美しい盛りを迎えている事実がある。この句の〈遊女〉は、幼い頃から禿として遊郭に入り、芍薬が満開に咲き乱れている光景を見たことがないのかもしれない。あるいは今、女盛りも知らず、命を終えかけている遊女かもしれない。もしかすると、美しいまま命を終える遊女の姿を、芍薬に重ねているのかもしれない。こうした彼女たちを待ち受ける運命を思うと、どうしても〈さかり〉の語に、その後命を落としてしまう遊女を想像してしまって。
夏井:詠まれているのは芍薬なのだけど、その芍薬の美しさに遊女の美しさを重ねてしまうよね。花の芍薬の盛りを感嘆しながらも、その奥にある、いくら美しくとも遊里の世界では本当の盛りを迎えられない彼女たちの運命がちらついてしまう。