奥田:俳句が示すヒントはわずか十七音ながら、読み手の受け取り方には限りがない。華やかで美しい芍薬は、遊女の一過性の若さや美しさそのもの。ヒントが少ないからこそ、妄想をとことん掻き立てられますね。

 一方、次の牡丹の句は間違いなく花そのもの。

 豁然と牡丹伐りたる遊女かな

 無情にも、美しい牡丹を鋏で切ってしまった遊女。この句には、どこかしら女の業が表れているようで、胸がザワついてしまった。

夏井:〈豁然〉に心の迷いがないよね。この上五が、俳優であり映画監督である奥田さんの心を波立たせたんだろうね。

奥田:同じように、胸を突かれたのが、次の句。

 捨團扇遊女の顔のあはれなり

夏井:〈捨團扇〉は、秋になり不要になって置き捨てられた団扇のこと。

奥田:団扇がポーンと投げ捨てられているわけですよね。団扇を放り投げたのが遊女なのか、はたまた客なのか、そこは定かではないのだけれど、取り合わされた言葉にグサリと胸を突かれちゃった。

夏井:〈遊女の顔のあはれなり〉ね。

奥田:上五からの流れは滝のような落差。この瞬間、ただ団扇が投げ捨てられている光景以上の心象が、ズドンと目の前に立ち上がってきた。「こういう風に、季語を使うのか!」と。

夏井:最初読者は、打ち捨てられているのは、団扇だと思っている。ところが一転、遊女自身も捨てられる存在なのだと気づいた瞬間に、ハッとさせられてしまう。

 夏が過ぎれば無用の長物となる団扇。それを商品価値の薄くなってきた遊女と重ねて、さらにまた〈あはれなり〉と最後に畳みかけている。

 通常俳句では、〈あはれなり〉と直接的に言わずに、状況描写から「あはれだな」と感じさせるものだから、私はちょっと「子規さん、しつこいゾ」と思っちゃった(笑)。でも、奥田監督は違うのね。〈捨團扇〉と〈あはれなり〉のつながりこそが、重要なんでしょう?

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子規の姿勢は映画監督と重なる