中村不折が描いた病床の子規
中村不折が描いた病床の子規
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 34年の生涯で約2万5千もの俳句を残した正岡子規。その膨大な作品には、遊里や遊女を詠んだ句も意外と多い。その「艶俳句」を俳優の奥田瑛二さんと俳人の夏井いつきさんが考察した。そして、お互いの意見を言い合う中で見えてきたのは、夏井さんも驚く、奥田さんの“読み方”だった。二人の子規トークをまとめた『よもだ俳人子規の艶』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、紹介する。

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滲み出る運命

夏井:子規の艶俳句は、明治二十六年が圧倒的に多い。記録としては、二十七年に当時新聞記者の古島一雄(一念)に連れられて遊郭に行ったことは分かっている。これら禿の句は、二十九年~三十年に詠んだもの。子規の不調の原因が脊椎カリエスだと分かるのは、二十九年の三月で、この時手術もしているから、実景であるのかどうか……。想像やかつての思い出を頼りに詠んでいる可能性もあるよね。

奥田:脊椎カリエスは、背骨が結核菌におかされる病。今でこそ結核のメカニズムは理解されていて、治療法もあり、そこまで恐れる病ではなくなったものの当時は致死の病。三十歳前後の人生の盛りにそんな「最後通牒」をもらったわけだ。

夏井:『仰臥漫録』の明治三十四年九月二十九日には、〈吉原の朝を写したるもの〉として次のような思い出が記されている。

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芍薬の美しさに遊女の美しさを重ねる