その後、竹中さんはなんとか関西の名門・同志社香里中学校に合格したが、個性的な父に振り回されることは中学以降も続いた。
「学習塾を開いたものの、父はマイナスの計算ができず、中学の勉強を教えることができなかったんです。でも、講師を雇う余裕もない……。そこで僕が勉強を教えたり、母が丸つけをしたりするようになりました。ほほ笑ましく思うかもしれませんが、今では『当時の自分は、ヤングケアラーだったんじゃないか?』と思うこともあります。家計を支えるために仕事を手伝わなきゃいけないので、部活にも入れず、好きなゲームもできず、学校から帰ってきたら塾に行って夜の8時ぐらいまで授業を手伝っているような日々でしたから」
もともと周囲に合わせる性格だったうえに、一風変わった家庭環境だったこと。その結果、「自分が抱える不安や悩みは、自身ではなく、この家庭環境に由来するんだろう」と竹中さんは考えるようになった。
今でこそ、それらの一部がギフテッドとしての特性に起因していたとわかるが、その頃はまだギフテッドという言葉も知らなかった。
その後、竹中さんは同志社香里高校を経て、同志社大学に進学。大学で美術学を学んでいたことも影響し、就活では広告代理店を志した。だが縁はなく、最終的に紳士服を取り扱うアパレル系企業に入社した。
「自分はどうして広告を作りたかったのかなと考えた時に、『何らかのマッチングをはかっていけるといいな』と思ったことに気づいたんです。ならば『人材開発』の仕事だったら自分にもできるのかなと考えて、会社では人事の仕事をメインに働かせてもらっていました。ただ、自分が入社した年にリーマンショックが起きたんです……」