紀伊半島と中上健次
百々さんの代表作、紀伊半島シリーズを撮り始めたのは90年。
「みんながやってない方法を考えないと、しゃあない」と思い、それまで使ってきた小型カメラからエイトバイテン(8×10インチ)という巨大なカメラにがらりと切り替えた。
「細部まできっちりと被写体の世界を写せる大判カメラを使って、スナップショット的に撮ろうと思った。1分もかからずに、ピントを合わせて、フィルム入れて、カシャっと撮る。そのうえで、しなやかに、手のひらでふわっととらえるような感覚で撮影する。それを自分の思いだけでとらえるんじゃなくて、向こうの世界っていうんかな、それをとらえな、いかんなと思った」
そのころ、紀伊半島を撮影した写真家はほとんどいなかった。紀伊半島は遠く、あまりにもスケールが大きかった。
「高速道路が全然なかったころです。大阪の写真学校の仕事を9時ごろ終えて、それから車でダーッと山道や海岸沿いの道を走ると、現地に朝の4時~5時ごろ着いた」
撮影を始めてしばらくすると、紀伊半島を舞台に数々の作品を書いた中上健次と出会った。中上は熊野古道で知られる和歌山県新宮市出身である。
「当時、中上さんは大阪・天王寺でミニコンサートをプロデュースして、都はるみが歌ったりしていた。ぼくはそれを聞きに行って、中上さんと会った。こんなことをやってるんや、言うたら、『紀州 木の国・根の国物語』(角川書店)を送ってくれた。集落での職業とか、路地の話とか、非常に詳しく書かれている。この本は紀伊半島を撮る資料というか、相当力になりました」
濃密な地霊のようなもの
百々さんは紀伊半島を車で走りながら、集落の家々や自然の雰囲気を観察した。「ここが、いいな」と感じると、車を止め、三脚につけたカメラを担いで徹底的に歩いた。
「紀伊半島の山はすごく深い。それが魅力なんですが、深い山の中にぽつぽつと集落があって、炭焼きをしたり、牛や馬のなめし革を作ったり、いろいろななりわいの生活がある」
三脚に取りつけた大判カメラを持ち歩いても、山村の住民はそれがカメラとはわからない。
「まあ不審者です。ははは。紀伊半島の後、大阪の路地をこのカメラで撮っていると、『おっさん、この辺は何か、道路を拡張するんか。測量機か』って言われた。それは紀伊半島の撮影でも同じで、みんな不思議がった。カメラだと納得してもらうためにピントグラスに映った写す対象をのぞかせると、『いやあ、おもろいなあ』って。そこで『撮らしてよ』言うと、『ああ、いいよ、いいよ』という感じになった」