
大学を卒業した70年、百々さんはロンドンを訪れ、「アレ・ブレ・ボケ」の写真を実践した。「ハイドパークとか面白くて、ずっと写真を撮っていた」。
実は、ロンドンを訪れたのはテレビのクイズ番組の賞品だったという。
「弟が毎日放送のクイズ番組にぼくの名前で応募したんです。そうしたら『変わった名前だからオーディションに来てくれ』みたいな感じで、行った。そうしたら、予選でトップになって、本戦に進んだ」
10問連続正解すればロンドン・ローマ旅行である。
「ぼくは10問連続正解したんです。それでロンドンとローマにタダで行けた。天国みたいなもんですよ。あちこち観光名所をまわる予定をすべて断って、夜、ホテルに帰る以外はカメラを手に街を歩いた」
ロンドンの街を写した作品は「カメラ毎日」に掲載された。すると、「その写真を松本清張さんが見たんです。それで、『ロンドンの小説を書くから、もう1回、行かへんか』と誘われて、一緒にまた行きました」。

田辺聖子が書いた序文
このころ、百々さんとしては珍しくヌードを撮影している。
「このヌードの写真は彼女です。この人がぼくの奥さんになるわけです」
72年、結婚を機に大阪へ戻り、本格的に地元の撮影を始めた。浪速区・新世界の界隈、特に西成地区を歩いた。最初は35ミリカメラを使っていたが、80年代に入ると中判カメラの二眼レフでも撮り始めた。
「35ミリカメラでは人とすれ違うようにスナップ写真を写していた。でも、そうではなくて、労働者のおっちゃんやら、出会った人としっかりと向き合って撮らんとあかんな、という感じで、会話しながら二眼レフで撮るようになった」
写した写真はプリントして撮影のたびに持ち歩いた。
「撮った人に出会ったら写真をあげる、ということをやっていた。みんな、どこに住んどるかわからへんからね。『あいつ、写真くれよるで』って、知られるようになりました」
そんな写真を作品集『新世界 むかしも今も』(長征社、86年)にまとめた際、序文を芥川賞作家の田辺聖子に依頼した。かつて田辺の実家は大阪市・中之島近くで写真館を営んでいた。
「田辺さんに、新世界の写真を撮っているから写真集の序文を書いてほしいと、手紙を書いたら、写真が見たいから持っておいで、と言う。ご自宅を訪れると、若い人がこんな写真を撮ってるのはおもろい、言うて、すぐに書いてくれはった」