いま文科省が一生懸命推進しているのが「アクティブ・ラーニング」。一方向的に教師が教えるのではなく、生徒・学生が能動的に、相互にまた教師と双方向的にやり取りして学ぶ、という触れ込みです。文科省がこういうことを言い出す気持ちはわかる。まさに「アクティブ」さ、子どもたちの能動性がはっきりと低下してきているからです。しかし、こんなことをやっても問題が解決されないことは明らかなのです。これは自分の経験からわかりますが、90分間、それなりに込み入った話を集中して聞いて理解しようとすると、大変に疲れます。つまり、それこそ「アクティブ」でなければ、いわゆる講義形式の授業をしっかり聞くことはできないですよね。要するに、一方通行的講義というのは、それが成り立つならば、「アクティブ・ラーニング」だったのですよ。文科省がいま推している「アクティブ・ラーニング」は、能動性が発揮されているかのような状況を外形的につくって、それを「アクティブ」だと見なしているにすぎません。問題は、能動性の根源が失われたのはなぜなのか、ということであって、それに取り組まずに「アクティブ」とか何とか言ったところで、逃避しているだけですね。 私の場合、学校の先生が何を言っていたか具体的にはほとんど覚えていません。けれども、何かの拍子に先生の言ったことだったり先生の佇まいだったりが印象を与え、生き方に影響を及ぼしてきたわけです、いまにして思えば。だからそれこそ、いろんな佇まいを子どもや若い人たちの前に、サンプルとして提示すべきですね。どんな大人になりたいのか、なるべきなのか、教師たちのまとう雰囲気というかオーラは、若い人たちにそうした問いを突きつけると思うのです。

 いまの話は教師と生徒・学生との間の人間関係の話ですが、生徒・学生同士の間での人間関係も、「学ぶこと」から離れていっているように感じられます。大学時代に学んだ重要なことのひとつは、「何と言っても人間関係が大事である」ということです。どうやって効率よく単位を取るか、そのためには人間関係がきわめて重要だった。

 私がいたサークルでは過去問の模範解答の集積がありました。何十年間もコピーを重ねて代々伝わってきたものなので、判読困難なのですが。それから大事なのは、「ノート見せてよ」と頼めるクラスメートがいること。頼めるためには、友好な人間関係を保っておかなければならない。

 ノートを写させてもらうなら、もちろんギブ・アンド・テイクでなければいけない。別の授業のノートを見せるとか、模範解答を渡すとか、どっちも持っていなければ飯をおごるとか。よく覚えているのですが、大学生の時、試験期間中、学部の掲示板の前にずっと立っていて、通りかかる学生たちに手当たりしだい「すいません、○○の授業を取っていませんか」と声をかけていた男の子がいました。もちろん誰も相手にしてくれない。彼は卒業できたのだろうか、といまでも思います。

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相互扶助をしない今の大学生