■アトランタ・ホークスで夢のNBA選手になる

 この頃は多忙を極めた。朝、社宅がある東京都調布市から満員電車に乗り、飯田橋の東京本社へ。午後4時まで仕事をこなし、体育館がある国立に向かう。練習を終え帰宅するのが午後9時から9時半。それでも忙中閑あり。休日だったある日、息抜きに行った東京・六本木の外国人に人気のバーで日本人女性に一目惚れした。妻の英子だ。

「語学に堪能で独立心旺盛な彼女に興味を持ち、ナンパしました。でも初めは相手にされず、何度もトライしました」

 トヨタ入社4年目に大きな転機が訪れた。4年連続得点王に輝いたこともあり、再度NBAに挑戦したい気持ちが抑えきれなくなった。

 27歳でトヨタを退社し、アトランタ・ホークスのトライアウトを受けた。4カ月のテスト期間中、試合をこなしながら篩(ふるい)にかけられ、50人いた選手が15人に減り、3カ月後には5人になった。

 合格は2人。最終発表日、自分のロッカーに戻ると、ロッカーの名前がスタッフの名前に取り換えられていた。終わった……と思った瞬間、ベテラン選手が「お前のロッカーはこっちだよ」と教えてくれた。

「あの時の喜びは一生忘れない。子どものころから夢見ていたNBA選手になれた。興奮しました」

 だが、2試合に出場しただけで再契約されず、1年後にトヨタに復帰。その年、5年の交際を経た英子と結婚。トヨタでプロ選手として活躍する傍ら、コーチの面白さにも目覚めた。当時のアメリカ人コーチに選手の起用や戦術の助言を求められ、アドバイスしたことが面白いように機能した。

 33歳で引退。家族とカリフォルニア州サンディエゴに住み、IT企業に就職。息子と娘にも恵まれ、3年後に副社長に昇進したものの、バスケへの思いは断ちがたく、子どもたちのチームのコーチをして紛らわせた。

 すると10年、女子のJXサンフラワーズ(現ENEOSサンフラワーズ)からアシスタントコーチのオファーが届く。当初は日本から離れて10年も経ち、しかも女子チームということに気乗りはしなかったが、練習や試合を見学するとレベルの高さに驚き、快諾した。

ホーバスのバスケスタイルはPGが要。複雑なフォーメーションを単に覚えるのではなく、各ポジションの動きを頭に入れ、先の先まで読んで指示を出す(写真=朝日新聞社)

 ホーバスは通訳をつけなかった。通訳に頼ると細かいニュアンスが伝わらなくなる。たとえ片言の日本語でも自分で伝えることが大事だと考えた。

「私は熱い人です。通訳がいると選手に思いが伝わらないし、選手は通訳の方を向く。私の目を見てほしい。日本人女性は心になくても“はい”という。だから本当の気持ちを確かめるために、必ず“私の目を見て話して”と言います」

 戸惑うこともあった。ある選手を褒めると急に泣き出した。言葉を間違えたとドキリとしたが表情は嬉しそう。その時に、日本人選手は指導者に叱られるばかりで褒められた経験が少ないと察知、選手の能力を伸ばすには褒め言葉が必要と考えた。

 コーチは刀鍛冶の工程に似ていると語る。

「職人は鉄を熱し、叩き、冷まし、それを何度も繰り返し名刀を作る。コーチも同じです」

 トヨタで日本文化や日本人を知り、大学やNBAでバスケの戦術を学び、ENEOSで女子選手の生態を理解し、そして妻から日本人女性の真の強さをしこたま見せつけられた。

 そんなホーバスの経験と知恵が女子日本代表HCに就任し、開花した。無意識に設定した選手の限界を突破させるため、「頭を使っているの!」「何やっているんですか!」と激しい言葉をぶつけ、ギリギリまで追い込んだ。ENEOS時代から指導を仰ぎ、長い付き合いの宮澤夕貴(28=富士通レッドウェーブ)は、ホーバスが自分たち以上に信じてくれたことが力になったという。

「トムさんの指導は厳しいけど、全部理にかなったものばかり。だからみな、この人についていけば、本当に金メダルが取れると思っていました。でも時々変な日本語で檄を飛ばすので笑いを堪えていると、“何? 変なこと言いましたか”って」

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スポーツになぜその緻密さを活かさないのか