■トヨタで仕事をしながら4年連続得点王になる

日本に単身赴任して10年。25歳の息子ドミニクはグリーンベレー(米陸軍特殊部隊)、23歳の娘マリッサはサンフランシスコにIT系の会社を起業し独立(撮影/大野洋介)

 1967年、アメリカのコロラド州にある小さな町デュランゴで生まれた。姉1人、兄3人の末っ子。父は軍人だったこともあり、厳格に育てられた。兄たちの影響で5歳からバスケを始める。

 高校で州のチャンピオン。ペンシルベニア州立大学に進みNBA入りを目指した。コーチはバスケの戦術にたけ、確かな技術も教えてくれたが、厳しいばかりで選手の戦意を下げることもあった。

「この時に、コーチは戦術戦略にどんなにたけていても、選手のモチベーション維持に失敗したら、結果は得られないことを知った」

 大学卒業と同時にNBAヒューストン・ロケッツのトライアウトを受けた。だが最終選考に残れず、プロの道を求めポルトガルに渡った。その1年後、トヨタ自動車のトライアウトを受ける。当時日本バスケは実業団リーグで、仕事をした上でバスケをやるというシステム。ビジネスにも興味があったホーバスには好都合だった。

 90年に23歳で来日。言葉は通じなかったが、厳格な家庭で育ったせいか日本の水が妙に合った。

「例えば、会議が8時スタートだと7時50分には全員が揃う。海外ではそんなことありえない。規則正しく誠実で律儀なところが、僕のメンタリティーにぴったりだった」

 海外マーケティング部に配属され、海外の社員4万人向けの英語版社内報の編集を担当した。

「日本の文化や伝統、日常を紹介する『ライフ・イン・ジャパン』というコラムを担当し、企画、取材、ライティングも一人でこなした。この仕事のお陰で日本を深く知ることができた」

 ホーバスが日本語の先生だったと語る現トヨタカローラ愛媛社長の松田卓恵(52)とは、互いに辞書を片手に会話を重ねた。その松田が、ホーバスはとにかく真面目で研究熱心だったと語る。

「分からないことをそのままにしない。必ず“なぜ”“どうして”と聞いてくる。頭の中にグレーゾーンがあるのが嫌なんだと思う。今の彼の指揮を見ていてもわかる。問題は必ずクリアにする」

 入社3年目には、海外の社員が東京本社で研修を受ける際の講師も任された。独特のカンバン方式、効率を徹底したトヨタ方式などのビジネスカルチャーを伝えるには深い知識が求められたが、「私は勉強の人」と自任するホーバスには刺激的な環境だった。

 その一方、バスケでも大活躍、4年連続得点王に輝いた。仕事とバスケを高いレベルで両立させるのはなかなか難儀だが、当時コーチだった長谷川聖児(62)は、目標を立てたら必ずやり遂げるのがホーバス、という。

「仕事やバスケはもちろんのこと、自分の体にも意識が高かった。腰痛で医者から手術を求められていたのに、自分で完治させる目標を立てた。医学書などを読みあさり、自ら編み出したエクササイズで治し医者に驚かれていました。目標を立てたら必ず遂行する。今の彼そのもの」

暮らしとモノ班 for promotion
防災対策グッズを備えてますか?Amazon スマイルSALEでお得に準備(9/4(水)まで)
次のページ
コーチは刀鍛冶に似ている