このように徳川方による真田丸への攻撃は、十二月四日早朝の篠山攻めから始まった。その後、各軍勢が功を焦り、我先にと攻め込んだ。それにつられて後方の軍勢も続々と攻め寄せ、大名ら軍勢指揮官の命令も届かない状態となってしまった。また徳川方の軍勢は、濃霧のため真田丸の状況を十分に理解せずに攻め寄せ、空堀に侵入するなどした。しかし、濃霧はやがて晴れ、真田丸を守る信繁らも徳川方の攻勢を発見し、徳川方への攻撃を開始した。

真田丸の戦闘状況

 徳川方による真田丸への攻撃を知った信繁らはどのように戦ったのだろうか。まず真田丸の防衛態勢について見ていきたい。信繁が指揮した軍勢は、六〇〇〇人であったとされている。信繁の軍勢は、ほとんどが秀頼から預けられた軍勢であった。

 真田丸の守りに入った人物としては、秀頼黄母衣衆(母衣とは軍隊で、背にかける大形の布帛。流れ矢を防ぎ、存在明示の標識にもした。黄母衣衆は黄色の母衣を着けた)の伊木七郎右衛門、他に北川次郎兵衛・山川帯刀などが知られている。伊木七郎右衛門は、秀頼から御目付衆(軍監)として付けられていた。北川次郎兵衛・山川帯刀は、真田丸の背後に押さえとして一万の軍勢を率いて配置されていたともされている。

 この他には、長宗我部盛親の軍勢も真田丸に入っていたのではないかとも伝わっている。長宗我部勢は、惣構で井伊勢と交戦したことが確認できる。その井伊勢は真田丸でも戦っている。このため長宗我部勢は、一部が真田丸に入り、その他はその背後の平野口惣構西側を守っていたのではないかと考えられている。

 戦闘状況であるが、攻め寄せた徳川方は、真田丸の堀底に侵入しており、真田丸から鉄砲が撃ちかけられた。この攻撃によって徳川方は大きな損害を出した。井伊勢は、堀底にいる味方を援護しようとしたが、真田丸からの銃撃が激しく近寄ることができず、撃たれるのを見ているしかなかったという。

 前田勢も続々と真田丸の空堀に突入していった。前田勢は突入以外にも真田丸への銃撃を行ったが、真田丸からの反撃や惣構から援護があり、前田勢にも多くの損害が出た。こうして前田勢は、先手の奥村摂津守が崩れたのをはじめ、続々と諸勢も敗れていった。

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