イメージ写真
徳川家康像。東京大学史料編纂所所蔵

 大坂冬の陣における戦闘の中でも特に知名度の高い「真田丸の攻防」。真田丸と呼ばれる出丸(本城から張り出して築いた小城)を舞台に真田信繁が指揮を執り、徳川方に大きな損害を与えたが、どのように撃退まで追い込んだのか。朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十四章 著:草刈貴裕)から一部抜粋、再編集して紹介する。

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濃霧の中、攻撃を開始する

 真田丸に対する徳川方の備えとして、前田利常(加賀藩)・松平忠直(越前藩)・井伊直孝(上野国白井藩、兄の彦根藩主井伊直勝に代わって出陣)などがいた。

 徳川方も真田丸を警戒し、用心深く対応した。家康は、慶長十九年(一六一四)十二月二日に大坂城の様子を見回った。その後、前田利常に対して軽々しく城攻めをしないこと、仕寄せ(城攻めのための拠点を築くこと)をしてから城攻めを行うことを指示した。そのため前田利常は、竹束(竹で楯を作り弓や鉄砲からの攻撃を防ぐための物)を並べて塹壕や土塁を作る工事を進めた。しかし、信繁は真田丸の南側にある篠山に兵を送り、そこから工事中の前田勢に向かって鉄砲での攻撃を加えて、前田勢の工事を妨害した。

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前田家小姓が攻撃