十二月四日明け方になると、前田家家老で先手を務めていた本多政重(本多正純弟)らが、真田勢が攻撃を行っていた篠山に対して攻撃を仕掛けた。その結果、前田勢は篠山を獲得した。しかし、真田勢はすでに引き揚げており、そこに真田勢の姿はなかったという。篠山を制した前田勢は、そのまま真田丸への攻撃へと移っていった。また前田勢以外にも松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎などの軍勢も真田丸へと迫っていった。

 この時、前田勢は小姓たちが戦功に焦り、前田利常の許可がないまま攻撃に乗り出した。それにつられて馬廻衆(主将の馬の周りを警護する親衛隊)も前田利常の許可を得ずに攻撃を開始した。こうして前田勢は、真田丸に殺到し、大損害を出す原因となった。こうした者たちは戦後に処罰され、切腹を命じられた。前田勢のような状況は、井伊勢と松平勢でも起こっていた。井伊勢と松平勢は、互いに場を譲らず前進し続けた。こうした結果、真田丸に達し、下知がないまま攻撃を開始した。

 また、前田勢が篠山を攻めた十二月四日明け方は濃霧であったと伝えられている。そのため前田勢以外にも藤堂・井伊・松平各軍勢の攻め手は連携が取れなかったという記録も残っている。濃霧の中で攻め寄せた軍勢は、真田丸の防備状況を理解しないまま近づいた。

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真田丸の戦闘状況