そして寛永十三年十二月に従五位下・侍従に叙任され、「高家」に任じられた。ここに今川家嫡流家も、「高家」とされたのである。以後の今川家は、その家格を維持していくのであった。範英は、正保二年に武蔵多摩郡・豊島郡で新たに所領五〇〇石を与えられて、あわせて一〇〇〇石を領した。そして寛文元年(一六六一)十一月二十四日に六八歳で死去した。法名は浄岑院殿松山青公大居士。妻は筑後柳川領一〇万石の立花宗茂の養女(立花家家臣矢島重成の娘)で、延宝六年(一六七八)八月六日の死去、法名は浄徳院殿安室涼禅大姉。
二人のあいだには、嫡男範明(左京・松林院殿、慶安元年閏正月四日死去)と次男範興(五郎・幻桂童子か、慶安二年六月十六日死去)があったが、いずれも早世したため、範英には外甥にあたる岡山弥清の長男・氏堯(母は品川高久の娘、一六四二~七三)が養子に入って、継承している。なおその後、今川家の家督は、三度にわたって分家の品川家から養子が入って継承されている。今川家嫡流家は、氏真の血統によって、幕末まで受け継がれていった。