関ヶ原合戦後の慶長六年に、上野碓氷郡で所領一〇〇〇石を与えられたという。妻は鷲尾筑後の娘(明珠院殿、寛永十七年四月十五日死去)であったらしく、そのあいだに、慶長十七年に嫡男高如(一六一二~七一)、次男高寛(一六一六~九七)が生まれている。他に二女(八木九郎右衛門妻・岡山弥清妻)があったとされる。高久は寛永十六年(一六三九)八月四日に六四歳で死去した。法名は松月院殿瑞雲文青大居士。死去まで仮名のままであったらしいので、徳川家家臣としての家格は高くはなかったことがうかがわれる。しかしその子高如の時、正保元年(一六四四)に「高家」に任じられている。品川家は、今川家の庶流にあたることから、幕府の式典作法を管轄するに相応しい家系と認識されてのことであったとみられる。
そして範以の嫡男で、氏真には嫡孫にあたる範英(直房)も、父範以死去から四年後の慶長十六年十二月に、秀忠に出仕したという。範英は一八歳であった。元服を踏まえて、氏真が申請してのことであったと思われる。またその際には、貞春尼の取り成しもあったことであろう。こうして今川家の嫡流家は、徳川家家臣の立場をようやくに確立させるのであった。範英は、仮名は今川家当主歴代の「五郎」を称し、のちに官途名主膳正、次いで刑部大輔を称した。祖父にあたる氏真の死後に、その遺領五〇〇石を継承したという(前掲『寛政重修諸家譜』二二七頁)。