歴史学者・黒田基樹氏は新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、徳川家康に最も影響を与えた人物であろう今川氏真と、氏真以降の今川家がどのような繁栄を遂げたのかを仔細に記している。同著から一部抜粋、再編集し、今川家嫡流家の足跡を紹介する。
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氏真一族の秀忠への出仕
氏真の嫡男範以は、終生、他家に出仕することのないまま、死去してしまった。しかし氏真の一族が、まったく徳川家に出仕しなかったのではなかった。すでに範以の生前に、外孫の吉良義弥と次男の品川高久が徳川秀忠に出仕している。
まず確認されるのは外孫の吉良義弥で、慶長二年(一五九七)に秀忠に出仕したとされている(『寛永諸家系図伝第二』一三頁)。義弥はわずか一二歳であった。この年齢からすると、父義定がすでに徳川家に出仕していたことは間違いなかろう。義弥はその嫡男として、徳川家の嫡男・秀忠に出仕したのだと考えられる。
とはいえこの時の徳川家は、まだ羽柴家に従う「豊臣大名」の立場でしかなかった。ところがその後の同五年の関ヶ原合戦での結果、家康は事実上の「天下人」になり、同八年に征夷大将軍に任官したことで、名実ともに徳川家を主宰者とする新たな武家政権としての徳川政権、すなわち江戸幕府を確立させた。さらに同十年には、家康は将軍職と徳川家家督を嫡男秀忠に譲った。その後も家康は、徳川家の家長として、また「天下人」として存在したが、徳川家当主は秀忠となった。