義弥はそのもとで、同十三年に従五位下・侍従に任じられている。この官位は、当時においては国持クラスの有力大名が任じられるものであった。義弥の所領はいうまでもなく、それには遥かにおよばない。またその官位は、天皇居所に昇殿できる「公家」の身分を意味した。ここで義弥が侍従に任官されているのは、昇殿する必要があったからであり、それは朝廷への使者を務めたり、徳川家における式典作法などを管掌する役割を担うためであった。こうした地位は、のちに「高家」と称された。義弥はこうして幕府の「高家」に就任したのであった。

 義弥が「高家」に任じられたのは、足利氏一族のなかで最高位の名門家である吉良家の嫡流家、西条吉良家の当主だったからであろう。室町時代の室町幕府の礼法などを継承していた存在のため、江戸幕府の式典作法を確立していくにあたって、その知識が必要だったのである。

 吉良義弥に続いて、慶長三年に次男の品川高久が秀忠に出仕したことが伝えられている(同前一九頁)。高久は二三歳であった。これは氏真の申請によるものという。氏真としては、嫡男範以に出仕の意志がないため、さしあたって次男高久を出仕させることで、今川家の家系の存続を図ったのかもしれない。またこの時には、秀忠の上臈であった貞春尼の取り成しもあったかもしれない。この時に高久は、秀忠から「物加波」と名付けられていた馬を賜ったという(『寛政重修諸家譜第二』二二九頁)。また秀忠から、今川苗字は嫡流のみが称すものなので、在名の品川を苗字とすべきことを命じられたという(「今川一苗之記」『今川氏と観泉寺』四二頁)。この時に武蔵品川(品川区)に所領を与えられたか、屋敷を与えられたのであろう。仮名を新六郎と称したという。

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徳川家家臣としての家格