ここからは貞春尼が、北条家のもとにいたことから、北条家旧臣と面識を持っていたこと、新たな家臣の取り立てに関与していたことがわかる。とりわけ家臣取り立てにおいては、実際にその仲介役を担っていることになる。家康から問い合わせがあったと記されているが、家康が秩父重信と面識があったとは考えがたく、そのためその存在を把握していたとも考えにくい。むしろ事実は、秩父重信が、子どもの徳川家家臣への取り立てを願い、旧知の貞春尼を頼って、その取り成しを頼んだものではなかったか、と思われる。そうであれば貞春尼は、徳川家の上臈として、家臣取り立てにも大いに関わっていたとみることができる。そしてこのことは、貞春尼はかつて武田義信妻として武田家にあったことから、武田家旧臣についても当てはまると考えられよう。
二つ目は、『言緒卿記』慶長十六年(一六一一)十月二十日条(大日本古記録本刊本上巻六〇頁)にみえる記事である。公家の山科言緒が、秀忠正妻・浅井江に帯三筋を進上した際に、取次を「京殿・今川テイ春」が務め、山科からそれぞれ帯一筋を贈られている。ここで貞春尼は、「御台所」浅井江の取次を務めている。同時にみえている「京殿」は、「副佐」という女性家老筆頭の立場にあったもので、室町幕府直臣・大草公重の娘で、浅井江が羽柴秀吉養女として秀忠と結婚した際に付き従ってきた存在であるらしく、こののち元和三年(一六一七)頃まで、女性家老筆頭の立場にあったらしい(福田千鶴『大奥を創った女たち』)。
貞春尼が浅井江の取次を務めているのは、この時だけしかみえていない。また浅井江への取次の際には、「京殿」に次ぐかたちで記されているので、その時の立場は、「副佐」であった「京殿」よりも下位に位置していたことが認識される。問題となるのは、貞春尼の立場である。この二件からは、彼女は浅井江の上臈とみなされることになる。しかし当初は、秀忠付きの上臈であったことからすると、その後に、浅井江付きの上臈に変更されたのか、もしくは秀忠付きの上臈ではあったが、浅井江への取次も担ったのか、ということが想定される。
もっともこの慶長年間における江戸城の奥向きのあり方については、まだ十分には判明しておらず、その解明は今後の検討課題であるといえよう。したがってこの時、貞春尼が、秀忠付きの上臈のままであったのか、浅井江付きに変更になっていたのかは判断できない。またそれらの史料で、浅井江の上臈とされているのは、当時の江戸城奥向きを秀忠正妻の浅井江が管轄していたから、女房衆はすべて浅井江の管轄下にあるということで、浅井江付きと表現されたにすぎないとみることもできる。いずれにしても、秀忠が浅井江と結婚した文禄四年(一五九五)以降は、浅井江に随従してきた「京殿」が、秀忠奥向きの筆頭に位置するようになったのであろうが、それまではこの貞春尼が筆頭に位置していたとみることは可能であろう。
これらの問題の解決は、今後の研究の進展に委ねざるをえないものの、これらの事例から、貞春尼は、徳川家当主・妻への取次を務め、また家長の家康から直接に諮問に与り、家臣取り立ての取り成しを務める、といった役割を果たしていたことを認識できる。それはすなわち、貞春尼は、徳川家の上臈、いわゆる女性家老として、徳川家の家政の運営において、極めて重要な立場にあったことを示すものになる。このことはひいては、戦国大名家において、女房衆という女性家臣の果たした役割の大きさへの注目につながる。そうした女性家臣の動向や役割については、これまで十分な検討はおこなわれていないが、今後において大いに追究していく必要のある領域とみなされる。