貞春尼が氏真の姉というのは、誤伝とみなされる。貞春尼が、家康の命により、浅井江(崇源院殿、一五七三〜一六二六)に仕えた、と記されている。彼女は本来、秀忠の上臈であったから、それが事実であれば、秀忠付きの上臈から、浅井江付きの上臈に変更されたことになる。この点についてはあとで考えることにしたい。そして家康から、北条家旧臣の秩父重信(一五五四〜一六三〇)の子孫について問い合わせがあり、貞春尼は秩父重信とは旧知であったため、子孫について報告すると、慶長十三年に重信の子重能が家康に召し出され、秀忠家臣に取り立てられたことが記されている。
秩父重信は、天正十八年(一五九〇)の小田原合戦ののち、牢人して武蔵秩父に隠棲していたという。家康が重信のことを知った経緯は不明だが、その子孫を徳川家家臣に召し出したいと考え、貞春尼に問い合わせた、ということらしい。貞春尼は、かつて北条家のもとにあったため、秩父重信とは旧知で、その家族の動向も把握していたということらしい。そして子孫の存在を家康に報告して、それにより秩父重能が家康に召し出され、秀忠家臣に取り立てられた、ということのようである。