
東急は、五島慶太が目指した街づくりについて、こう話す。
「五島慶太翁は、沿線のお客様を囲い込むのではなく、『オープンマインド』の持ち主。ターミナル駅での接続、都心への直接乗り入れを実施しました」(広報グループ)
ちょっとおしゃれでハイソなイメージの阪急と東急は、よく似ているといわれる。
だが、先の原教授は、両者の経営思想は全く異なり、五島慶太には小林一三に見られたような「官から独立した文化圏を築く発想はなかった」と評する。
「例えば、阪急は国鉄の大阪駅の南側に梅田駅をつくることに固執し、デパートも大阪駅とは離れた場所につくりました。対して、東急東横線の渋谷駅は国鉄の渋谷駅に合わせる関係になり、東横百貨店(現・東急百貨店)は国鉄渋谷駅の上にまたがり、まるで国鉄のデパートのように見えました。阪急がお上に挑戦的だったのに比べ、東急はお上に距離的に近かった」
ただ東急は「長い時間をかけ街づくりをしてきた」と原教授。
例えば、西武鉄道は自前で住宅地を作ることに熱心ではなく、代わりに日本住宅公団(現・都市再生機構)が50~60年代にかけ沿線に次々と団地をつくった。西武のイメージはよくなり沿線人口も増えたが、子どもは成長すると団地から出ていき親世代は高齢化し、団地の人口も減っていったと、原教授は指摘する。
「対して東急は、あくまで一戸建て主体の住宅開発を進めます。その結果、特に田園都市線沿線は、高級感のある住宅地をつくり出すことに成功しました」