
小林一三と五島慶太
「当初、箕面有馬電気軌道は、周囲から冷ややかに見られていました。というのも、当時の鉄道事業は大阪-神戸、大阪-京都など人口が多い大都市間を結ぶのが常識。ところが宝塚や箕面のある北摂津は人口が少なかった上、宝塚には現在の福知山線がすでに通っていました」(原教授)
だが小林にはアイデアがあった。沿線の土地を買収し、駅前に住宅地を開発し売り出し、電車に乗って大阪まで通勤する客をつくっていったという。
「お客がいないのであれば、乗客を作り出すという考え方に立っていたわけです」(同)
小林一三記念館(大阪府池田市)館長の仙海義之(せんかいよしゆき)さんは、こう述べる。
「居住者が楽しく豊かに暮らせる沿線づくりを実現することこそが、小林一三の目指した鉄道事業に伴う街づくりであった」
一方の「東急」はどうか。

東急の始まりは、阪急より12年遅い1922(大正11)年に設立された目黒蒲田電鉄だ。翌23年、目黒-蒲田間の目蒲線(現・東急目黒線および東急多摩川線)が開通する。
東急グループの礎を築いたのは五島慶太。東京帝大を卒業すると農商務省に入省、鉄道院を経て、実業界に身を転じた。
五島は小林を真似て、沿線に娯楽施設やデパートをつくり、住宅地を開発し、自社の鉄道沿線の付加価値を高めていった。