朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた
武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人(日本人)も少なからず被害にあった
自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態
さらに犠牲者数については、震災の全死者(約10万5千人)のうち、「1〜数%」、つまり1千〜数千人の規模にあたると推定している(ちなみに、震災直後に調査した朝鮮人団体は、犠牲者の数を約6千人としている)。
状況からしても正確な人数をはじき出すことは不可能だが、政府も認めるこの虐殺の事実を否定する歴史家はいないだろう。
こうした歴史的な経緯もあり、73年に横網町公園内に朝鮮人犠牲者の追悼碑が建立され、その翌年からは各種市民団体などの共催によって追悼式典がおこなわれるようになった。
第1回の式典には、当時の美濃部亮吉・東京都知事が「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、歴代都知事は、この追悼式典に追悼文を送り続けたのである。