ところが――異変が起きた。

 2017年のことだ。小池百合子都知事が、追悼文の送付を取りやめたのである。小池知事は会見においてその理由を「関東大震災で亡くなったすべての方々に追悼の意を表したい」と述べた。同じ日におこなわれる「大法要」にメッセージを寄せることで、「すべての方々」を追悼するという理屈だ。

 会見場でその言葉を直接耳にした私は、強烈な違和感を覚えた。

 震災の被害者を追悼するのは当然だ。一方、虐殺の被害者は「震災の被害者」ではない。震災を生き延びたにもかかわらず、人の手によって殺められた人々だ。まるで事情が違う。天災死と虐殺死を同じように扱うことで「慰霊」を合理化できるわけがない。だからこそ、たとえば、ことあるごとに「三国人発言」のような差別認識を披露していた石原慎太郎氏も含めて、歴代都知事はこれまで朝鮮人犠牲者の追悼式典にメッセージを送り続けてきたのではなかったか。

 小池知事の言葉は、天災のなかに人災を閉じ込めるものだ。

 以来、毎年開催される朝鮮人追悼式典で知事のメッセージが読み上げられることはなかった。

 虐殺という事実にふたをするに等しい行為だ。

 小池知事の追悼文送付「取りやめ」は、思わぬ余波をももたらした。

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朝鮮人虐殺の「否定論」の立場をとる者