昨年、文化功労者に選ばれた千葉大学名誉教授の西川惠子さんは、「特殊な液体」の構造を自ら開発した装置と手法で明らかにしてきた。東京大学に進学後、博士課程を3カ月で飛び出し、学習院大学へ。助手として在籍すること17年、横浜国立大学教育学部の助教授として転出し、さらに良い研究環境を求めて千葉大学大学院の教授になった。ポジションが上がるにつれ、当時の女性研究者の多くが体験した苦労を味わうことになる。
>>【前編:東大の博士課程を3カ月で飛び出した 女性実験化学者74歳の人生を動かした20代での決断】からの続き
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――学習院大学に勤めていたときに結婚されたのですね。お相手はどんな方ですか?
東大佐佐木研(東大の大学院時代に所属していた研究室)の同級生です。彼は修士を終えて、化学会社に就職しました。もとから就職するつもりだったようで、「私が働くから、博士課程に行けば?」と言ってみたんですが、「いい」と言った。私が学習院大に行った3カ月後に結婚しました。彼の職場は神奈川県の足柄にあって、民間会社のほうが朝早いからと新居は(神奈川県)厚木市に構えました。(東京都豊島区)目白の学習院までは1時間半ぐらいかかる。大変でしたよ。
学習院大に行って3年目に娘が生まれたんですが、おなかが大きくなると通勤が本当に大変で、3カ月だけ東京にアパートを借りました。生まれたあとは、乳児を預かってくれる保育園もなかったので1年半ぐらい(静岡県)三島市の私の実家に預けました。土日は私が車を運転して厚木から三島に行く生活です。1歳になった4月から自宅近くの保育園に預けましたけど、子どもにとってもストレスなんでしょう。しょっちゅう病気して、そのたびに母に来てもらった。実家の母には本当に世話になりました。
――お子さんはお1人ですか?
ええ、これ以上はムリと思いました。職場の近くに住めたらもう少し違ったと思いますが、別居は夫が許してくれなかった。子育てには苦労しましたけど、学習院大の方たちはよく理解してくださった。研究室コンパのときは子どもを連れていったこともありましたよ。