学習院時代は娘を研究室コンパに連れていったこともあった=1980年ごろ、学習院大学理学部物理化学研究室の談話室で

 ただ、学習院大には助手からそのまま助教授に昇格できないというルールがあった。どこか別の大学でポストを探さないといけない。十数の大学に応募書類を出して、ようやく横浜国大の教育学部の助教授に採用していただけた。着任が1991年です。結晶学会賞をいただいたのが1988年ですから、それが効いたのだろうと思います。

 ここにいるとき、「超臨界流体」という文部省(当時、現・文部科学省)の科学研究費(科研費)の重点領域研究が始まって、京都大学の教授から一緒に研究しませんかと声をかけていただいた。

――超臨界流体とは何ですか?

 物質には、固体、液体、気体の3態がありますよね。温度と圧力を上げていくと、臨界点を超えた温度・圧力領域では気体とも液体とも違う流体になります。それを超臨界流体と呼びます。特徴は、液体と気体を混ぜたように分子が不均一に分布していること。分子同士の間に隙間がいっぱいある感じです。そして、その分子の塊と隙間は、非常に短い時間で生成消滅を繰り返しています。まさに「ゆらぎが大きい」状態です。

 炭素材料というのも穴がいっぱいあって、吸着剤などに利用されていますよね。あるとき、「穴(隙間)がある」というところが共通しているからと炭素材料の研究者が誘ってくれて、共同研究を始めたんです。それが千葉大の教授でした。

 その先生が、千葉大が大学院を拡充してポストができたので、と私に声をかけてくださった。教育学部では十分な研究ができないため、教育学部ではないところに移りたいと思っていたところだったので喜んで応募し、採用が決まりました。しかし、反対が強かった。

――え、千葉大の中で、ですか?

 ええ、その当時は教育・研究組織の改革の真っ只中で、組織改革に無関心な先生方には、「新しくできた大学院担当の教員」である私は異質の存在だったようです。新しい組織を運営するシステムもまだ出来上がっていなかった。小さな実験室を一部屋だけ与えられましたけど、教授室はなかった。私や大学院生が研究する部屋が必要なので、空き部屋を使わせてくださいと事務官と交渉する毎日でした。それに、私は、学部には入れない状態でした。

――はい? 大学院の教授だけれど、学部での教育はできないということですか?

 そうです。でも、大学ではよくある話で、大体の女性は何とかセンターの講師や助教授というような格好で入って、講座とか研究室を持たせてもらえないケースが多い。それに近い形になったわけです。当時、女性が大学で教員や研究者として職を得る場合、新しくできた組織や新規のポジションしかありません。大抵の場合、組織改革などで侃々諤々の議論をしているところなので、新任者を迎える準備ができていない。こうした意味でも女性研究者は苦労してきたと思います。

次のページ
私は調整型の人間なんです