甲子園で2度の春夏連覇をはじめ、全国制覇9度と圧倒的な強さを誇る大阪桐蔭だが、かつては全盛時代のPL学園に「追いつけ追い越せ」を合言葉に、切磋琢磨した時代もあった。そんな両校が大阪を舞台に繰り広げた激闘の歴史を振り返ってみよう。
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夏の大阪大会で両校が初めて対戦したのが、1994年の4回戦。桐蔭は3年前の夏に初出場の甲子園で全国制覇を成し遂げていたが、その後はPL、近大付、北陽、上宮の4強に次ぐ第2グループ的存在だった。
同年のセンバツで4強入りしたPLは、福留孝介(中日、阪神など)、大村三郎(ロッテ‐巨人)らタレント揃い。一方、桐蔭には高校通算46本塁打の守田寛がいた。
5回まで1対1と互角。だが、PLは6回に連打で一挙3点を勝ち越し、そのまま逃げ切った。桐蔭はPLの6安打を上回る8安打を記録しながら、2度の好機に守田が抑えられるなど、試合運びのうまさにしてやられた感もあった。
それから2年後の96年夏、両チームは大阪大会準決勝で再び激突する。
PLが3回に前川勝彦(近鉄、阪神など)の右中間場外への2ランで先制すれば、桐蔭も5回に集中打で逆転するというシーソーゲームは、4対4の延長10回、桐蔭の4番・高野典昭の2ランで決着したかに思われた。
ところが、その裏、“逆転のPL”は2死から同点に追いつくと、なおも一、三塁で荒金久雄(ダイエーなど)が左越えに劇的なサヨナラ打。甲子園で何度も修羅場をくぐり抜けてきたPLの本領発揮とも言うべき試合だった。
そして、翌97年夏、準々決勝で実現した3度目の対決は、前年同様激しい打撃戦となるが、1点を追う9回裏、桐蔭は7番・鴨田透が左越えに劇的な逆転サヨナラ2ランを放ち、10対9で勝利。ついに“打倒PL”の悲願を実現した。
だが、準決勝で履正社に1対2で敗れ、6年ぶりの甲子園は幻と消えた。一方、PLは翌98年夏の甲子園で松坂大輔(西武、中日など)の横浜と球史に残る延長17回の死闘を演じ、全国の球児たちの憧れでありつづけた。