今井健彦文部政務次官 「至極同感であります。(中略)戦時に於きましては適当な一方途と考えますので、十分研究致しまして御期待にそうよう致したいと思います」

 そして年が明けた1945年1月、日本政府は、特別科学教育を始めた。 当時の文部省の広報誌「文部時報」などによると、東京、金沢、広島、京都の各高等師範学校と東京女子高等師範学校計5校で行われていた。

 だが、特別科学教育の名の下に、子どもたちはどんな基準で選抜され、どんな内容の教育が行われ、講師はどんな人たちが務めたのかは、会議録や文部時報からは、読み取ることができなかった。

 金沢大学資料館に保管されている資料では、その具体的な内容を細かく知ることができた。大変貴重な資料であった。

 資料をひもといてみる。まず目についたのは、「金沢高等師範学校特別科学教育実施要項 昭和十九年度」と青字で書かれたページ。児童生徒の選抜基準についてこう定めていた。

 1  科学技術に特に優秀なる成績を示すもの

 2  資質の全般にわたり普通以上のもの

 3  意志強固にして忍耐力強きもの

 4  身体強健なるもの

 5  父母および近親者に科学技術者を有するもの

 6  本人および保護者に熱意あるもの

 7  家庭の環境の良否

 これらの項目に沿い、各中学校や国民学校で、定数の2倍の児童生徒を選抜し、選抜委員会で審査した、とあった。そして北陸各県の中学1~4年生と、国民学校4~6年生から、各学校長が選抜して推薦していたという。

 全体で何人の児童生徒が選ばれたのかまでは読み取れないが、1クラスあたりの人数は15人ほどの少人数で組んだとも書かれている。講師は、高等師範学校の教員らが教壇に立ったという。

■時間割は理数科目ばかり

 課程表もとじられていた。「科学教育」という名前の通り、理数教科を重点的に教えていたことが読み取れる。

 たとえば、制度開始当初の45年1~3月の中学1年のカリキュラムは、全360授業時間のうち、数学63時間、物象(物理・化学)54時間、生物36時間、工作36時間で、これら理数科目を合計すると全体の5割以上を占めていた。

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わずか数年の短命の制度だった