それによると、金沢大学理学部(当時)の書庫に保管されているのを、創立50年史を作成するための資料を探していた職員が発見したとのことだった。資料館に閲覧の申請をすませ、金沢へ向かった。
資料館職員の女性が倉庫から運んでくれた資料は、厚さ10センチほどのA4判が2冊。黄ばんだ表紙には、「科学教育関係 金沢高等師範学校」と書かれていた。目当ての資料だった。資料は、計数百ページに及ぶざら紙がひもでとじられ、ところどころ文字が消えていたり破れたりしていた。戦時中や戦後の混乱期に書かれたものであることをしのばせた。
その資料をひもとく前に、まず日本政府が特別科学教育を導入した経緯を、帝国議会の会議録からたどる。インターネットで検索すれば「帝国議会会議録検索システム」からすぐに読むことができる。
1944年9月、今の国会にあたる帝国議会は、戦争を追認し扇動する翼賛体制に変わっていた。衆院議員が「戦時英才教育機関」の設置を政府に求めていた。
その会議録(衆議院事務局、1944年9月10日 第85回帝国議会衆議院建議委員会)を読むと、当時の戦況を背景にした切迫感や、特別な英才教育を導入しようとした荒唐無稽な動機を知ることができる。
森田重次郎議員 「今の戦争は科学の戦争である。だから結局新しい精鋭な武器を持った方が勝つのだ。それには発明をしなければ駄目ではないか(中略)。青少年学徒の中から、最も天才的な頭を持って居る者を簡抜して、国家の施設で偏ったと言われるかも知れないけれども、いわゆる天才を伸ばす意味に於ける特別な勉強をさせて(中略)、『アメリカ』に勝つ、本当に新しい発明をして貰おうではないか」
■東京、金沢、広島、京都で行われた
対戦国のアメリカに勝つため、国が天才児を選抜して英才教育を与え、新兵器を発明してもらおう、という提案である。当時は、日本軍が占領したサイパン島が米軍によって陥落させられるなど、戦況が日に日に悪化していた時期である。 答弁にたった文部省の高官は、大まじめでこう答えている。