都市模型で空撮に再会
吉永さんが初めて空撮の世界に触れたのは「鉄道写真にどっぷりつかっていた」高校時代。
「当時、愛読していた鉄道雑誌『Rail Magazine(レイル・マガジン)』で花井健朗さんが鉄道の空撮写真を連載していたんです。すごくかっこいい世界だな、と思って憧れた」
しかし、大阪芸大で写真を学び、2002年に卒業したものの、「不景気で、写真の仕事はあまりなかった。フリーターをしていて、たまたま見つけた建築模型を作る仕事についた」。
吉永さんは当時、森ビル株式会社が手がけていたニューヨークの都市模型を製作するスタッフとなったことをきっかけに、建築模型専門の会社に入った。すると、また空撮の世界と出会った。
「例えば、渋谷の大規模開発計画の模型を製作するとき、資料として渋谷駅周辺の空撮写真があって、それを元に建設する建物を決められた縮尺で作るわけです。その写真を見ているうちに、昔、憧れた空撮の世界を思い出した。写真の世界に戻ろうと思いました」
吉永さんはインターネットで調べた空撮会社に片っ端から電話した。そのほとんどから断られたが、さいわい、学校の人文字などを撮影する会社が受け入れてくれた。
「04年から4年間は下積み時代でした。日々の仕事をこなすだけで精いっぱいでした」
空撮はコストがかかるだけでなく、撮り直しも難しい。人文字の場合は、特にそうだ。
「絶対に失敗が許されない職人の世界なので、胃が痛かったですね」
デジタルで撮り方が一変
通常の空撮は、太陽が空の高い位置から地上を照らすトップライトになるまでが勝負だという。朝から午後2時ごろまでフルに現場をまわる。それ以降は影が長くなるうえ、赤みがかった光になってしまう。
校庭に人文字がつくられた時間に合わせて現場に向かい、地形図を読みながら、パイロットに飛行を指示する。到着した現場の天候が予想した晴れではなく、曇っていることもある。その場合、急いで高感度のフィルムに詰め替えなければならない。撮影を終えたら、すぐに次の現場に移動。その間、揺れる狭い機内で中判カメラ用の大きなレンズ交換をする。そんな撮影を毎日20~30件、1人でこなした。
自分の作品を撮りたい、という気持ちはあったが、仕事の忙しさや撮影費用のことを考えると、なかなか踏み切れなかった。
それでも08年、吉永さんは鉄道の空撮を始めた。もちろん、自腹である。
ちょうどそのころ、カメラがフィルムからデジタルに変わり、撮影の幅が大きく広がった。