『百冊で耕す <自由に、なる>ための読書術』(CCCメディアハウス)
『百冊で耕す <自由に、なる>ための読書術』(CCCメディアハウス)

 その二。勉強は、目的が分からない。勉強は、勉強をしているその当座、なんのためにしているか、その目的が分からないという、やや困った特性がある。

 小学校のとき、九九のかけ算を習う。大きな声で、教室で暗唱させられる。これがなんの役に立つのかと問う小学生はいない。世界は、そう問わせない。そういうものなのだ、と。

 生まれた赤ん坊は、母語の世界に投げ出される。泳ぎ方(文法)を教わる前に、水に放り込まれる。話すことを強要される。いきなり言語の大海に投げ出され、「泳がなければ、世界におまえの居場所はない」と宣告される。聴覚に困難を持つ人たちも、原理は同じだ。

 自分は日本語ではなく、英語を、中国語を選びたい。そういう「選択制」は、ない。言語という象徴の世界に生きることを、強制される。そして、その目的は知らされない。それが、人間という社会的動物の、いちばん大きな特徴だ。

 かなりの恐怖だったはずだ。トラウマになっているはずだ。否応ない抑圧。フランスの精神分析学者ラカンは、これを「nom du père(父の名)」と名付けた。おそろしい父による強制。それが、言語活動だ。「non du père(父の否)」、つまり近親相姦の禁止と一対になっている概念で、とてもおもしろくスリリングな理論なのだが、それはまた別の話。 

 勉強とはつまり、nom du père だ。勉強しているあいだは、なんの役に立つのかさっぱり分からない。そういう特質を持つのがポイントだ。

人を愛するために学ぶ:
太宰のカルティベート

 勉強といふものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまへば、もう何の役にも立たないものだと思つてゐる人もあるやうだが、大間違ひだ。(略)大事なのは、カルチベートされるといふことなんだ。カルチュアといふのは、公式や単語をたくさん暗記してゐる事でなくて、心を広く持つといふ事なんだ。つまり、愛するといふ事を知る事だ。学生時代に不勉強だつた人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまつてもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまつても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残つてゐるものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。さうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせつてはいかん。ゆつたりと、真にカルチベートされた人間になれ!(太宰治「正義と微笑」)

 勉強をする。カルティベートされる。耕す。でも、なんのために? 太宰が、ここではっきり書いている。

 「むごいエゴイスト」にならないためだ。人にやさしく。<百冊で耕す>とは、ついに、人を愛せるようになるためだった!

 そして、人を愛せる人こそ、自分を幸せにする人だ。自分を愛するのが幸せなのではない。注意せよ。ここに大きな落とし穴、錯誤がある。幸せな人を、よく観察するといい。幸せな人は、必ず、人を愛している人だ。

 長々とここまで本を執筆してきて、ようやく、ほかならぬわたし自身が、いま気づいた。はっきり、つかんだ。

 なぜ、本など読むのか。勉強するのか。幸せになるためだ。幸せな人とは、本を読む人のことだ。

筆者の近藤康太郎氏
筆者の近藤康太郎氏
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