もっと若くて、家族のため、会社のため、地域のためにまだまだ力を尽くしたいし、少々苦しい治療でも、それを乗り越えれば先がある、という人と、Hさんのようにこれまで後悔もあるが、概ね幸せな人生を送ってきた、という人では病気の種類や進行度が同じでも、同一と考えることはできない。 

 Hさんの辛さや、これまでの人生という長い歴史における今回の病気には、Hさんにしか分からないことがたくさんある。その本人が熟考の末、「治療はこれまで」と決断したのだから、医師としてそれを尊重すべきだろう。今後は、痛みや苦しさをできるだけ抑える緩和ケアを中心とした方針に切り替えることにしよう。

【解説】

 Hさんは今の気持ちはもちろん、これまでの人生を振り返り、楽しかったこと、辛かったこと、そしてこれからどうしたいのか、という希望を簡潔に、しかし言葉に重みを持たせて語った結果、医師を納得させることができました。この「語り」には、自分の考えを相手である医師に理解、納得させる役割が当然あります。同時に、語るという発信の行為を準備する過程で、人生を振り返り、気持ちを整理し、どんな順番で、どのような言葉を使って医師に伝えようか、十分に考え、そしてそれを伝えたことによってカタルシス効果を生むことができています。

 カタルシスとは「心の浄化」で、精神的な新陳代謝を指します。思っていることを言葉という「乗り物」にのせ、口に出し、外に運ばせて初めて自分の考えとして姿を現し、Hさん自身が気持ちを確認したり、あるいは初めて気づいたりすることができます。このように患者の語りを通して、その患者が病気をどうとらえ、そして今後どうしたいか、ということを明確にし、その意図や希望を考慮して行う医療をNBM(ナラティブに基づく医療)と呼び、近年注目されています。

 Hさんが家族のことや、これまで医師には伝えなかった気持ちを吐露した結果、医師も「うちの子たち……」と、Hさんと同じ深さの個人的な話をしています。「自己開示の返報性」が表れ、Hさんと医師は患者と医療者以前の、「人と人」の関係を築いています。

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医療者も患者のメッセージを正確に、適切に認識するよう努めるべき