流氷から「旅」が始まった(写真:本人提供)
流氷から「旅」が始まった(写真:本人提供)

 最初につまずきながら解決法をみつけ出した時点で、「何だ、私はできるじゃない」とうなずく。その後の人生の基盤になった自信が、身に付いた。

 プライベートな悩みからは立て直したが、仕事のほうはそう簡単ではない。ほとんどが、中南米からのテレックスとファクスで注文を受ける作業。攻めることもできないし、市場がみえない。そうではなくて、自分で市場の動きを肌で感じ、売れるものを見いだしたい。ついには新聞の求人広告をみて、女性が主な利用者の商品を手がける会社の仕事を、探すようになる。結局、日産に6年9カ月在職し、90年末に退社した。

■経歴は要らない 出世など無用 ただ自分の道へ

 そこから何度か転職した。立派とされる経歴を築こうという「キャリアビジョン」があったわけではない。出世したいとかトップになりたいと思ったことも、会社を持ってみたいと考えたことも、全くない。思いは一つ、「本当にやりたいと思うことを、やりたい」だけだった。

 1962年3月、東京都練馬区で生まれる。父は海軍に入ってビルマへいき、終戦で帰国すると祖父が設立して防虫剤を手がけていたエステー化学工業所(現・エステー)のナンバー2になった。エステーは「Service & Trust」の頭文字からとった社名だ。父は消臭剤へと事業を広げ、社長となる。母と姉2人の5人家族。地元の小学校から、中高一貫の私立東洋英和女学院へ進んだ。

 大学は、上智大学外国語学部イスパニア語学科。言葉を学ぶのが好きで、「自分が社会へ出るころには英語を話せるのは当たり前になっていて、武器にならない」と思い、スペイン語にした。就職では、父に小さいころから「子どもを会社に入れるつもりはない」と言われていたから、それは選択肢にない。日産の求人に、スペイン語を使って海外向けの仕事ができる、と応じた。84年4月に入社し、希望通り中南米担当に配属され、仕事の相手は各国の自動車販売店が中心だった。

 男性と同様に、海外出張もした。年に1度くらい、カリブ海のリゾート地などに販売店を集める会合があった。これを企画し、販売店主らに販売計画を説明した。このころまでは、グローバルに働く夢もかない、充実感を覚えた。だが、冒頭で触れたような悩みが生まれていく。

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