69年3月、レッスン中に姿を消したまま、加橋は戻らなかった。岸部の弟、シローの加入は話題にはなったものの、すでに瞳の心もグループから離れていた。
「ある日、ウエスタンカーニバルの時に、日劇の奈落にピー(瞳の愛称)に呼び出されてね。『こんな所にいないで、一緒に京都に帰ろう』って言うんだよ」
岸部にはそのころ、すでにザ・タイガースの解散をにらんで、沢田たちと新たなバンドを組む企画が進行中だった。
<なんで帰らないといけないの? 帰ってどうするの? まだやること、こっちでいっぱいあるんだよ>
<一緒に帰らないんだったら、お前とはもう会わない>
<いいよ>
<一生絶交だ>
「子どもじゃないんだけどね。そんなやりとりがあったね」
■武道館での解散「帰れコール」
71年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館でのコンサートを最後に解散した。
公演の後、親や歴代のマネジャーも呼んで、有楽町のガード下にあるちゃんこ料理屋でお別れの食事会が開かれる。内田裕也の主催だった。
会が終わると瞳は、表に待たせていた家財一式を積んだ2トントラックに乗り込み、京都からコンサートを見にきてくれていた中学時代の親友2人と共に去っていった。振り返りもしなかった。
「よくそんな、ねえ。次の日だっていいじゃない(笑)。あの決意はすごいと思うけど」
ザ・タイガースというグループで青春を無駄にしてしまったという「火のような後悔」があったのだろうと、岸部は友の心中を思う。その後、瞳は37年間にわたってメンバーはおろか、芸能界との一切の交流を絶つ。
解散後、岸部は沢田とともに、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之とPYGの活動を本格始動し2月1日にデビュー。解散コンサートから1週間後のことだった。
PYGが目指したのは本格的なニュー・ロックだ。沢田と萩原のツインボーカル、天才と言われた大野、ミュージシャンに一目置かれる井上も加わり、「GSとは全く違う、もっと上のものを目指そう」と、今までに増して前向きだった。だが──。
出演したロックフェスでは「帰れコール」が飛び、トイレットペーパーや空き缶がステージに投げ込まれた。
「この人たち、ちょっとおかしいんじゃないと思ったぐらい、排除された。GSの残党が金儲けで集まったみたいに思われてるわけだから。出てる方はそんなことないのにね」
GSのファンからも、ロックファンからもそっぽを向かれ、コンサートの客席はガラガラ。メンバーの多忙も重なり、PYGは自然消滅していった──とされているが、実情は違ったらしい。
ある日、岸部のもとに電話がかかってくる。
「俺は、もうちょっと、沢田には勝てないなあ」
声の主はショーケンだった。(次号に続く/敬称略)
(本誌・渡部薫)
※週刊朝日 2023年5月26日号