ザ・タイガースとしてデビュー直後の岸部(写真提供=(株)アン・ヌフ)
ザ・タイガースとしてデビュー直後の岸部(写真提供=(株)アン・ヌフ)

 ここで、ちょっとした新情報をひとつ。

「住んでいたのは1年ほどね。二人で3畳一間みたいなところを3部屋借りたんですよ」と岸部。

 3部屋? ずっと「5人で2部屋」と伝わっていますけれど?

「3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない」

 東京行きが決まると、京都の四条花見小路にある旅館で、メンバーの親も同席して渡辺プロとの契約書にサインした。親側のまとめ役は職業軍人だった岸部の父親が買って出た。66年11月。5人の若者の姿は、開業間もない新幹線の車内にあった。

 彼らの人生は東京で一変する。作曲家すぎやまこういちの一声でザ・タイガースと改名し、翌年1月に日劇ウエスタンカーニバルに初登場すると、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、上野「テネシー」など都内のジャズ喫茶は連日満員に。2月に出したデビュー曲「僕のマリー」の売れ行きは最初こそ凪だったが、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気は爆発する。68年1月のウエスタンカーニバル出演時には、ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースら並み居る人気バンドの中でも一頭地を抜く存在となっていた。

「ようやくどうにか一番になったという感じでしたね」。後に沢田は自叙伝『我が名は、ジュリー』で語っている。

 上京してわずか1年。飛行機での移動では空港に専用の出入り口が用意され、車で走れば警察車両が先導し、発車時刻に遅刻しそうな時はマネジャーが新幹線さえ止めさせた。

「いきなり、19やハタチで何もかも特別扱いになった。ちょっとやっぱり、生意気になってたでしょうね」

■GSブームと70年安保闘争

 岸部は嵐のような日々を述懐する。住む場所も合宿生活を送った千歳烏山の一軒家から四谷左門町、目黒の池尻大橋と、自宅に押し掛けるファンから逃れるように引っ越しが続いた。ベルベットのジャケットにフリルのブラウス、バレエダンサーのような白いタイツ風の衣装も着た。

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