
NPBではこれまで87人の投手がノーヒットノーランを達成しているが、外国人の達成者も1937年7月3日のヴィクトル・スタルヒン(巨人)から昨年8月22日のコディ・ポンセ(日本ハム)まで、台湾出身の呉昌征(大阪)と郭泰源(西武)、日系2世の亀田忠(イーグルス)を含めて10人いる。
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この中からファンの記憶に残る助っ人のノーヒッター3人を紹介する。
メジャーでは登板10試合(0勝0敗)ながら、テスト入団したヤクルトで見事“ジャパニーズ・ドリーム”を実現させたのが、1995年に来日したテリー・ブロスだ。
同年春のユマキャンプで「磨けば光る」と野村克也監督に見込まれた身長205センチのテスト生は、年俸40万ドル(約4000万円)という条件に、「信じられない!そんなに貰えるの?」と喜びをあらわにした。
4月9日の巨人戦で初先発初登板。5回1失点で来日初勝利を挙げると、無傷の4連勝で4月の月間MVPに選ばれた。
だが、球種が少ない欠点を露呈し、6月から1カ月半勝てない日々が続いた。角盈男コーチと試行錯誤の末、縦に落ちるスライダーを習得し、8月19日に巨人を4安打完封したことが、さらなる飛躍への大きな足掛かりとなる。
そして、9月9日の巨人戦、ブロスは速球と切れのあるスライダーを軸に、7回まで1人の走者も許さない。
7回の攻撃中にスコアボードを見てパーフェクトだと気づき、「狙ってやろう」と意識したブロスだったが、8回1死、代打・大森剛に投じた初球、低めへのスライダーが地面をこすった直後、避けた大森の左足甲に当たる死球となり、完全試合は幻と消えた。
それでも平常心を失わず、2死後、川相昌弘の右前へのヒット性ライナーを稲葉篤紀が飛び込んで好捕するなど、バックの堅守にも助けられ、打者28人で史上62人目のノーヒットノーランを達成した。
「言葉にならないけど、体がしびれているよ」と感激に打ち震えたブロスは、ウイニングボールを「お前にとっては日本がメジャーだよ」と送り出してくれた郷里の父親にプレゼントしている。