オリックス時代のイチロー(写真提供・オリックス・ブルーウェーブ)
オリックス時代のイチロー(写真提供・オリックス・ブルーウェーブ)
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 プロ野球選手の背番号は、エースなら「18」、中心打者ならひと桁番号というイメージが強いが、大きい番号でも、オリックス時代のイチローの「51」、巨人時代の松井秀喜の「55」のように、球史に残る名選手がつけて以来、“伝説”になったものもある。

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 オリックスの「51」は、イチローのメジャー移籍後、誰も継承していない“準永久欠番”となり、巨人の「55」は、松井のヤンキース入団後、2009年から大田泰示(現DeNA)が5年間つけたあと、現在は期待の若手・秋広優人が背負っている。

 その一方で、ファンとしては、“偉大なるレジェンド”の前にこれらの背番号を誰が着けていたかも、気になるところだ。

 イチローが入団する前年までオリックスの「51」をつけていたのは、投手の八木政義だ。銚子商時代は甲子園に出場していないが、3年春の千葉県大会で2試合連続14奪三振を記録して4強入りするなど、県下を代表する剛腕だった。

 1988年にドラフト3位で阪急に入団。前年まで「51」を着けていた福良淳一が、巨人に移籍の簑田浩二の「1」に変更したのと入れ替わる形で、八木が受け継いだ。

「51」は、近鉄の“19歳の4番打者”土井正博、東映時代に2年連続本塁打王に輝いた大杉勝男、「神ってる」の流行語を生んだ広島時代の鈴木誠也、さらには江藤智、前田智徳も入団時につけた“強打者の番号”でもある。

 これに対し、阪急・オリックスの歴代「51」は、ドラフト制以降、夏の甲子園4強のケネス・ハワード・ライト(岡山東商)、作新学院時代の江川卓(入団拒否)に次ぐドラフト2位・山下浩二(本第二)、センバツ出場の西尾利春(二松学舎大付)、そして八木と、将来を期待された高校出身の投手が多かった。

 だが、「51」を与えられた投手たちは、いずれも大成していない。八木も通算2試合登板に終わり、91年限りで引退。イチローの前の51番を覚えている人はどれだけいるだろうか?

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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松井秀喜以前の巨人の「55」といえば?