一方、松井以前の巨人の「55」といえば、若手時代の吉村禎章を思い浮かべる人が多いはずだが、淡口憲治も72年から2年間つけている。吉村が「7」に変更したあと、86年から杉浦守が6年間背負うなど、外野手が多いが、松井が入団する前年は、ヤンキース時代に先発ローテーションの一角を担った左腕、チャック・ケアリーがつけていた。

 巨人時代のケアリーは当初抑え、その後先発もこなしたものの、19試合で3勝5敗1セーブ、防御率3.61と今ひとつの成績に終わり、1年で退団。「松井の前の巨人の『55』は誰?」というクイズを出して、即座に「ケアリー」と答えられる人は、そう多くないだろう。

 入団時に「47」を貰ったことがきっかけで、“左のエースナンバー”に定着させたのが、工藤公康だ。

 82年に西武入りした工藤は、前年まで和田博実2軍バッテリーコーチが着けていた「47」を与えられた。

 実は、和田コーチも55年の西鉄入団時に「47」を与えられ、3年目から正捕手として黄金時代に貢献しているので、その意味では出世番号と言えなくもない。阪神、東京の大エースとして通算320勝を挙げた小山正明も「47」だった。

 だが、工藤は当初「けっして好きな番号ではなかった」という。「でも、僕が47番、ナベ(渡辺久信)が41番、横田(久則)が43番と、若い投手が40番台をつけて1軍で活躍しているうちに、『47番と言われたら、工藤を思い出してもらうようになりたい』と思うようになったんです」。

 以来、ダイエー移籍直後の2年間(「21」)と西武での現役最終年(「55」)を除く26年間「47」をつけつづけ、背番号と同じ47歳までプレーした。

 その後、「47」は西武・ソフトバンク時代の帆足和幸、ソフトバンク時代の杉内俊哉、巨人では山口鉄矢に受け継がれ、左のエースナンバーの代名詞になった。

 花開くことなく終わったドラ1左腕から夢を託され、「54」をエースナンバーに出世させたのが、ロッテの“ジョニー”黒木知宏だ。

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「お前のために54番を温めておいた」…