誰かの子育てが、未来の誰かを支える
お互い「言わずに察する仲」を目指す
とはいえ、筆者も、子育て中とはいえ実際は大層なことをしている意識はない。目の前の子育てに必死に取り組んでいるだけである。「この子の生きる将来が少しでも住みよいものに」と願いはするし、それ相応の問題意識も持つが、何か具体的な活動をするわけではない。ただ、「子育てするだけ」である。
だから、根っこのところでは刹那主義の人と大した違いはなく、偉そうにとやかく言える筋合いでもない。
しかしそれでも、子育てという一大事業は、我が子が大人になった暁には国の経済活動を支える、ささやかだが確実に必要な一本の柱を作る礎である。
刹那主義者、個人主義者、または自分の人生に全責任を負っている覚悟の自由人であっても、あと何十年かすれば社会の中で“高齢者”という枠に入って、大なり小なり社会からのサポートを受けることになる。そのサポートは、何十年も前に行われた誰かの子育ての延長線上にあるのだということを理解してくれたらうれしいなあ……と思わずにいられない。
親としては将来誰かに感謝してもらいたくて子育てをしているわけではないので、いちいち「子育てという、とても偉いことをやりました!」などと恩着せがましい意思表明をするつもりも毛頭ない。しかし、「こちらも言わないので、よければそちらも察してください」と願ってしまうのは虫が良すぎるだろうか。
今ひらめいたが、子を持つ人は子を持たない人の理解を引き出すために、率先して子を持たない人をもう一段階深くリスペクトするのがいいかもしれない。歩み寄ってくる相手には自分も歩み寄ってあげたくなるのが人間の心理であり、これを利用して成し遂げられるのが相互理解である。
プチバズりしている今回の投稿は、「独身・子どもなし」で自分の人生を謳歌している人がどのように感じているかを垣間見る、一つの貴重なサンプルとなった。この勇気ある意見表明を参考に、子持ち勢・非子持ち勢双方の理解が深まっていけば幸いである。