第1回アジア・太平洋水サミット 2007年2度目のマネージャー時代(写真提供:著者)
第1回アジア・太平洋水サミット 2007年2度目のマネージャー時代(写真提供:著者)

 この時、珍しく明け方に野口から携帯に電話があった。時計を見るとまだ四時だ。

「どうしたんですか?」と私が言うと、「起きてましたか。小林先生は朝が早いね~」と、なかなか用件を切り出さない。

「いや、マジで眠いですよ。何があったんですか?」と私。

 すると声色が変わり、「あのさ、龍ちゃんとの写真、あれ全部消せる?」と小声で言ってきた。「まあ、できますけど。でも、ほんとにいいんですね?」と言い、私はすぐにパソコンを起ち上げ、関連ファイルをサーバーから削除した。

「はい。もう一回見てみてください。消えてますよ」

 そう言うと電話を切り、私はすぐにベッドに戻った。すると五分ほどして再び携帯が鳴る。「どうしたんですか?」と不機嫌な私。

「いや、ほんと申し訳ない。龍ちゃんとの写真、あれやっぱり全部もとに戻して。やっぱよくない。こういうのはよくない。すぐに戻して。すまん」

 私は再びパソコンを起ち上げながら、健さんらしいな、と呟いていた。

■病院でついた嘘

 事件の報道は日増しに過熱していた。そんな中、野口は自身が理事長を務めるNPO法人への特別顧問への就任を橋本に打診した。

 二〇〇六年の正月、「自分はもう登山は無理だから、これを持っていけ」と橋本は愛用していたピッケルを野口に渡した。橋本が倒れたのはこの約半年後だった。会食中に、旧知の新聞記者から私の携帯に連絡があった。

「ハシリュウが倒れて新宿区の国立国際医療研究センターに入院したみたい。すぐに健ちゃんに教えてあげて」

 私たちは会食を終えると、その足で病院を訪れた。夜の病院は非常灯の明かりだけで真っ暗だった。入り口を少し進んだあたりで警備員に制止された。

「橋本龍太郎さんのご親族の方から連絡があり、『来てくれ』と呼ばれまして」

 嘘が口をついて出た。そのまま総合受付の前で待った。野口も私も何も話さなかった。しばらくして、警備員に指示され、エレベーターに乗った。橋本の病室は固く閉ざされていた。その前に橋本の長男が一人立っている。野口が駆け寄っていき、私は遠慮してその場に立っていた。緑の非常灯だけの薄暗いリノリウムの廊下に、二人の影が長く伸びている。野口の黒いシルエットが徐々にうなだれていく。うんうん、と野口が何度も頷いている。二人の会話は聞こえない。すぐその先に橋本がいるのに、そこには野口でも入れなかった。

 数日後、富士山の清掃活動中に橋本の訃報に接した。清掃中の野口に私がその旨を伝えると不法投棄されたゴミを片付けながら、「そうか」とだけ言った。

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