毎日放送の榛葉によると野口は一九九七年の時点で、チベット側に一九八八年の橋本隊のゴミがあることをパサン・シェルパから聞いてすでに知っていた。彼は一九八八年の橋本隊メンバーだったためだ。そして、実際に橋本隊のゴミを一九九七年のエベレスト初挑戦の時に発見している。
■ゴミを橋本事務所に持参
エベレストの清掃登山は前半の二年間(二〇〇〇年、二〇〇一年)がチベット側、後半の二年間(二〇〇二年、二〇〇三年)がネパール側だ。これにも意味がある。初年度のエベレスト清掃の際にこのボンベを見つける必要があったのだ。そして、本当にそのボンベを見つけ、面会の際に持ち込んだのだ。
当時を知る岡山県総社市の片岡聡一市長が、この時の様子を語る。片岡は大学卒業後に橋本龍太郎事務所に入所。二一年仕えた秘書の職を辞し、二〇〇七年の総社市長選挙で初当選している。
「私自身は橋本先生に秘書として二一年間仕えてきましたが、懐に飛び込めた、と思えたのは一七年目でした。人の心の中に飛び込むというのは、そもそも簡単なことではないですが、橋本先生は特にそのあたりが難しい方だった。
その極めて難しい橋本先生の心の中に飛び込んでいったのが健さんですよ。なにしろ橋本先生が総隊長を務めた登山隊がエベレストに残してきた酸素ボンベを回収し、わざわざ事務所に持ち込んできて『実はあのー、今日は一九八八年の先生の忘れ物を持ってきまして』と言ってくるわけですから。それで先生も『確かにこれは我が隊のゴミです。参りました』となるわけです。おもしろい奴だ、こりゃ参った、と橋本先生も思ったわけですよ。
以後『健さんが来てます』と言うと『おう、入れろ』とフリーパスになるわけです。こんなふうに橋本先生が心を許した人は、他にはジュディ・オングさんくらいしかいない。だから当時の私からしたら、健さんに対してはジェラシーですよ。それと同時に、凄いな、とも感じていたわけですけど」
橋本、野口、酸素ボンベのスリーショットもしっかり写真におさめた野口は、これを機に橋本との付き合いを始める。だが、その後も野口は一切へりくだった付き合い方をしなかった。かといって、ストレートなやりとりをするわけでもない。二人のやりとりはウィットに富んでいて、どこか言葉遊び的であり、会話それ自体を楽しむスタイルだった。そして、野口には時にどこか人をくったようなきわどい球を投げるところがあった。