日中共同声明に調印する田中角栄首相と周恩来首相(1972年9月29日、写真=朝日新聞社)
日中共同声明に調印する田中角栄首相と周恩来首相(1972年9月29日、写真=朝日新聞社)

 このようにパンダが死んでもすぐに代わりを贈ってもらえた背景には、日本が70年代末から中国の経済開発に対する資金援助を始めており、70年代から80年代にかけて両国関係は「日中蜜月の時期」とも呼ばれるほどだったことがある。そんな日中関係の中で、パンダはまさに「友好のシンボル」の役割を演じたのである。

 ホァンホァンとフェイフェイの間には3頭の子どもが生まれた。1985年に生まれたチュチュはすぐに死んでしまったが、86年にはトントン、88年にはユウユウが誕生した。上野動物園は70年代に続き、パンダ人気で大いに活況を呈することになった。

 1992年、繁殖適齢期まで育ったトントンにパートナーを与えるため、ユウユウとのオス同士の交換により、北京動物園からリンリンがやってきた。この年は日中国交正常化20周年の節目であり、リンリンが来日したのは史上初の天皇訪中が実現した直後だった。

 1990年代に入り、日中関係を取り巻く環境は大きく変化する。1989年、中国政府が市民の抗議活動を武力弾圧する天安門事件が発生すると、日本の中国報道からそれまでの友好色は薄れていった。

■リンリンの死からリーリー、シンシンの来日

上野動物園で一般公開されたリーリー(2011年4月1日、写真=朝日新聞社)
上野動物園で一般公開されたリーリー(2011年4月1日、写真=朝日新聞社)

 日中関係は2000年代に入り、極めて難しい局面に突入した。日中戦争などをめぐる両者の歴史認識の溝は市民レベルの感情対立に結びつきつつあり、市民感情の悪化に対し、両国政府は関係改善のための取り組みに着手し始めた。

 そのような中、2008年、上野動物園に暮らす最後の1頭のパンダであるリンリンが死んでしまった。時はあたかも、日中関係改善の総仕上げのために胡錦濤・国家主席が訪日する直前だった。

 訪日した胡錦濤首席は、日本への新たなパンダの提供を発表した。しかし、2010年に尖閣諸島沖での巡視船衝突事件が発生すると、日本のメディアではパンダを歓迎しない声も噴出した。

 2011年2月、リーリーとシンシンのペアがついに上野動物園に到着する。その直後、東日本大震災が発生したため上野動物園は一時閉園したが、4月には再び開園しパンダを公開。それまでの雰囲気と打って変わって、日本社会はパンダを歓迎したのである。これぞパンダの持つ魅力としか言いようがない。

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