たとえば、相手を殴りつけた後に、「いまの殴打を撤回します」と言っても、せいぜいたちの悪い冗談にしかならない。してしまった行為を後から取り消すことなどできない。そして、言葉を発することも「行為」ないし「活動」の一種にほかならない。

■発言はひとつの行為である

哲学者の大森荘蔵(1921-1997)は、自身の代表的な論考のひとつ「ことだま論」(『物と心』所収、ちくま学芸文庫、2015年)において、この最後のポイントを強調するために、「言い振り」とか「声振り(こわぶり)」といった表現を編み出している。

「五体の動きを「体振り」と言うならば、視線の動きは「視振り」であり、声の動きは「言い振り」または「声振り」と言うことができよう。そして、五体、視線、声、はそれぞれ身(み)の一部なのだから、「体振り」「視振り」「声振り」を合せて「身振り」と総称できよう。」(同159頁)

「……慣習に従って声振り、それに従って触れられる、その行為が「言葉」なのである。」(同164頁)

こう大森が指摘するとおり、私たちは日々、手や足などを使うのと同様に、声を使って相手に働きかけている。それは紛れもなく身振りの一種――「言い振り」、「声振り」――であり、行為の一種なのである。

この論点は、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)やJ・L・オースティン(1911-60)といった、日常言語の用法を重視した哲学者たちの議論に連なるものだ。たとえばオースティンの『言語と行為』(飯野勝己訳、講談社学術文庫、2019年)は、発話の行為遂行的(パフォーマティブ)なありようを緻密に分析した現代の古典として名高い。

言葉を発することは、それ自体がひとつの行為である。この、言われてみれば当たり前のことを、彼らがことさらに言い立てる必要があるのは、この点が実際にしばしば忘れられがちだからだ。

たとえば、生活を送るうえでの単なる道具として――記録や報告や伝言のための手段に過ぎないものとして――言葉を捉えるとき、私たちは得てして、言葉が何よりも人を癒やしたり励ましたりしうること、また逆に、ときにどんな暴力よりも人を傷つけ、恐怖を与えることを忘れてしまう。

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「言い方が悪かった」で済んでしまう