今季のパ・リーグ盗塁王・高部瑛斗(ロッテ)や13試合連続盗塁の世界記録を持つ周東佑京(ソフトバンク)に代表されるように、近年は“スピードスター”と呼ばれる俊足選手の活躍が目立っている。
だが、過去には、大成できなかったスピードスターも数多く存在する。
東京、メキシコ五輪に出場し、100メートル10秒1の日本記録(当時)を樹立した日本陸上短距離界のエース・飯島秀雄もその一人だ。
1968年のメキシコ五輪終了後、「足を生かした仕事をしたい」と考えていた矢先に、東京(翌年1月からロッテ)・永田雅一オーナーから「世界初の代走専門選手にならないか」と口説かれ、プロ野球入りを決意した。
野球選手以外では異例のドラフト指名(9位)を受け、外野手登録で入団。当時NPBのシーズン盗塁記録だった河野旭輝(阪急)の「85」を上回るようにと背番号「88」を着け、足に5000万円の傷害保険がかけられたことも話題を呼んだ。
デビューは鮮烈だった。69年4月13日の南海戦、3対3の9回無死一塁で代走に起用された飯島は、初球にいきなり二盗を成功させると、送球がセンターに抜ける間に三進。直後、井石礼司の左越えタイムリーでサヨナラのホームを踏んだ。
だが、いくら足が速くても、盗塁はスタートのタイミングが肝心。うまくスタートを切れないと、相手ベンチから一塁コーチに「“用意ドン!”って言ってやれよ」の野次が飛んだという。このエピソードに尾ひれがついたのか、相手野手の「用意ドン!」の声に反応して飛び出してしまったというまことしやかな話も伝わっているが、71年6月20日の西鉄戦では、二塁走者のとき、突然飛び出してアウトになる珍プレーも演じている。
2軍調整中の71年6月25日のヤクルト戦では、代走出場後、打者一巡して打順が回ってきたことから、プロ初打席(三振)に立ったばかりでなく、センターの守備にもついている。
3年間で23盗塁を記録した飯島だったが、盗塁死も17。とはいえ、ほとんどリードを取ることなく、“素の走り”で23回成功させたのは、球界快足ナンバーワンの証明でもある。