71年にドラフト7位で中日入りした盛田嘉哉も、名城大2年時から3年間で108盗塁を記録し、失敗はわずか3回。水原茂監督が「飯島は陸上一本だが、大学野球でそれだけ結果を残しているなら」と代走専門選手として入団させ、巨人の盗塁王・柴田勲の赤い手袋に対抗して黄色い手袋をはめた。

 大学3年時に打率.429を記録した盛田も、プロでは打者として開花できず、1軍出場51試合すべて代走(通算16盗塁)で終わっている。

 50メートル5秒6の俊足を武器に、80年代に“走り屋”として活躍したのが、広島・今井譲二だ。

 入団5年目の83年6月7日の中日戦、今井は1対2の9回無死一塁、衣笠祥雄の代走に起用されると、プロ初盗塁となる二盗を決め、直後、長内孝の逆転サヨナラ2ランを呼び込んだ。

 さらに敗れると2位に転落する同年7月31日の巨人との首位攻防戦では、3対4の8回2死一、二塁、山崎隆造の一ゴロが内野安打になる間に、二塁から快足を飛ばして同点のホームイン。「初めてプロ野球選手として仕事をした感じ」と感激に浸った。

 翌84年には15盗塁、86年にも17盗塁を記録し、チームのVに貢献したが、打撃は83年の10打席が最高。通算打率も.185にとどまり、強力な広島外野陣に食い込むことができなかった。

 そして、89年10月17日、本拠地最終戦の大洋戦出場を最後に引退。試合後、チームメイトに胴上げされた今井は「足のスペシャリストとして、ファンへの感謝の気持ちから」と無人のダイヤモンドを全力で1周し、本塁で待ち構えていた“友情出演”達川光男のタッチをヘッドスライディングでかいくぐる大熱演で有終の美を飾った。

 その後、郷里・本で、05年に井手らっきょが設立したプロフェッショナル・ベースボール・アカデミーのコーチとなり、教え子に村上宗隆ヤクルト)、岩貞祐太(阪神)がいる。

 最後は90年代のスピードスターを紹介する。試合はもとより、オールスター運動会でも自慢の快足を披露したのが、川名慎一(日本ハム‐阪神)だ。

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川名はスピード以外にも“特殊能力”