徳川家康といえば、これまで織田信長、豊臣秀吉と比べて地味で堅実な人物というイメージだった。しかし、2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、度重なる絶体絶命のピンチを知恵や周囲との連携で乗り切る姿を示すことで、従来の家康のイメージを刷新してくれるようだ。家康自身だけでなく、ゆかりの各地の城もまた、近年、発掘調査が進み、従来の説の見直しが迫られている。
国内外の城に精通し、テレビ・ラジオや講演で大人気の城郭考古学者・千田嘉博先生の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から、岡崎城から浜松城に居城を移転したことを通してわかる家康の先見の明について、一部抜粋・改編してお届けする。
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【浜松城】家康の挑戦し続ける意志
静岡県浜松市の浜松城は徳川家康の城として人気である。1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、家康は今川氏から独立して三河愛知県東部)の平定を進めた。そして、織田信長と同盟を結んで領国西側の安全を確保。東に広がる今川領へ領地を広げる方針を固めた。1568(永禄11)年、信長は足利義昭を将軍にするため上洛を果たし、家康は遠江(静岡県西部)への進攻を開始した。
翌1569年、家康は岡崎城(愛知県岡崎市)を嫡男信康に譲り、遠江に居城を移す決断をした。当初、家康は見付城(静岡県磐田市)を選んだが、信長のアドバイスに従って、武田信玄との戦いに備えて天竜川を防衛線にできる引間を適地と城の場所を改めた。そして、家康はこの城を浜松城と名付けた。いまにつづく浜松市の直接の起源は、家康にあった。
家康が岡崎城から浜松城へ居城を移転したことはよく知られている。しかし、この家康の選択はもっと評価されるべきだと思う。若き日の家康が従った今川義元は、西へ領国を広げても本拠の静岡市今川館は動かさなかった。家康がその後戦った武田信玄は、どれだけ領国が大きくなっても本拠の躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)は不変だった。つまり、当時は成功しても本拠は動かないのが常識だった。