1958(昭和33)年に市民の寄付で建てられた浜松城復興天守(写真/千田嘉博)
1958(昭和33)年に市民の寄付で建てられた浜松城復興天守(写真/千田嘉博)

 1958年に市民の寄付を得て復興天守を建設したが、この頃までに浜松城は、再建された天守曲輪(本丸より上位の曲輪)以外、ほとんど姿を消していた。近代になって全国的に城跡は公共用地として開発されたが、浜松城のように本丸まで消滅したのは珍しい。

 こうして、いったんはほとんどを失った浜松城だったが、いまふたたびよみがえろうとしている。浜松市では天守曲輪の発掘を計画的に進め、地下に戦国期から江戸時代にかけた本物の石垣や堀が残り、絵図でも確認できなかった櫓が近世初頭に立っていたことなど、画期的成果を上げてきた。さらに2017年に元城小学校が移転したのを受けて、2020年には、大規模な発掘を二の丸で実施した。

 この調査では埋没していた本丸の堀や石垣を発見するとともに、二の丸御殿の礎石を検出して、二代将軍徳川秀忠が生まれたという「御誕生場」の位置も特定した(異説あり)。つまり小学校跡地の地下に、浜松城の重要遺構が良好に残っていることを城郭考古学で証明したのである。地表からは見えず、なくなったと誰もが思っていた浜松城が、次々と発掘によって現れてきた。遺構を保存し、調査成果にもとづいて浜松城の本丸・二の丸の堀や石垣、御殿がよみがえれば、浜松城が国史跡になるのも間違いない。

 さて未来の浜松城をどうしていくかは、まさに浜松市民の選択にかかっている。浜松城を整備、復元していくことは、まちの歴史の原点を取り戻すことだと思う。議論が進み、未来に誇れる選択がされるのを期待したい。

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