※写真はイメージです。本文とは関係ありません
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【サクラさん】〔私は〕母より多分、社交的で〔……〕。ただ、子どもなので里に出会うまでは自分が置かれている環境っていうの全く分からない。おかしいことだとも思っていない。だって、私にとったら、おばあちゃんがまずいなくなったことが初めての経験なのに、お母さんと2人で住んでこういう状態っていうのは、どこの家庭も一緒やとは思ってないですよ、『なんで私、こんな苦しいんやろう』と思ったけど、誰かに助けを求めないといけないような状態じゃないとは思っていました。

 なんぼ〔生活保護の〕ケースワーカーさんが来て、「お母さん大丈夫?」って言われても、「いや、ご覧の通り、きょうも死のうとしていましたけど」みたいな。舌がずっと回ってなくて。
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「なんで私、こんな苦しいんやろう」と思っていたのにもかかわらず、「おかしいことだとも思っていない」と、苦しみはここでも語られないままである。そのことは「誰かに助けを求めないといけないような状態じゃない」と<SOSを出そうともしていない状態>へと帰結する。「きょうも死のうと」していた母親については救急車を呼び、近所に助けを求めるが、自分自身の苦しさについては表に出せない状態だ。自分について明瞭なSOSを出せないサクラさんの困難は、蓄積されて潜在化することになる。親がうつ病で苦しんでいる子どもは少なくない。おそらく身体の病や障害で、家族が介護を必要とするケースよりも多いだろう。そして、子どもにとって精神の病はあいまいで、SOSも出しにくい。サクラさんのような子どもは、私たちの想像以上にいるはずだ。

 この苦しいけれども自覚しきれていない、あいまいな苦しさこそがヤングケアラーの置かれた状況なのではないだろうか? 子どもは自ら声を出すことができない。このことも踏まえて表情や行動から隠れたSOSを大人がキャッチする感受性が求められるのだろう。私は、著書『子どもたちがつくる町――大阪・西成の子育て支援』(2021)のなかで、これを「SOSのケイパビリティ」と呼んでいる。

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■脚注
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注1)依存性が高く2015年に販売中止になったエリミン錠。

注2)「【サクラさん】もうお母さんがかわいそうですけど、何も知識がないっていうことはかわいそうですけど、やっぱり子どもが。私、だって誰にも頼らずにっていうのは頼れる場所は〔小学校6年生になってから〕見つかったけど、こどもの里、私の場合はありがたく。頼れる場所は見つかったけど、頼るすべを知らないから、頼り方が分からないから、結局、何をSOSしたらいいのか。どこからが助けてって言っていいところなのか、甘えなのか、知っているのが常識なのか、分からなくて。」