次の引用はサクラさんが小5の頃のことである。
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【サクラさん】ただ、夜になると母が本当に今から言えば笑い話やけど、正座をして、手をこう、本当、白雪姫みたいなお願いする手にして、「どうか、このまま一生目が覚めませんように、眠り続けますように」って星に願いをするんですよ。毎日のように。眠剤を勝手に飲みゃいいのに、死にたかったら、私、子どものときからなんですけど、「死にたい人は勝手に死ぬ」って言っているんです。「黙って死ぬねん、死ぬ人は」って。
でも、お母さんは私に「今からこれ飲むで、お母さん、死ぬからな」。私に、絶対、言うんですよ。「これ飲むから、私、死ぬから。救急車呼ばんといてよ」。でも、私が救急車を呼ぶことも何回も重ねてくると、救急車呼ぶことも分かるから、小学校5年生ですけど、「眠剤飲んでいいけど、ロフトなんで、救急隊が上がってこれないから、下で寝てな」って言うんですよ。お母さん、この約束、破ったことないんです。分かります?
だから、死ぬ気はないんですよ。100パーと言ってもいいぐらい。ただ、サクラに心配してほしいのか分からない。娘に心配してほしいのか、社会に気づいてほしいのか。どこにもぶつけられないSOSを彼女なりにやってたんやと思うんですよね。ただ、飲んでいる量は一昔前の薬やったら死んでいる量を飲んでいるんですよ。本当に大げさじゃなくて、100錠ぐらい飲んでいるんですよ。いわゆる赤玉(注1)とか言うやつあるじゃないですか。
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束縛も恒常的なのだが、母親が過量服薬を「毎日のように」繰り返すこともサクラさんの経験の基底にある恒常性のリズムだ。
母親もサクラさんも極端に両義的である。この引用でも、母親はサクラさんが見守っている目の前で過量服薬する、つまり、娘に依存する劇場型の自殺企図だ。一方で、「死ぬ気はないんですよ。100パーと言ってもいいぐらい」というような自殺企図を否定する言葉があり、それでも「一昔前の薬やったら死んでいる量」を飲んでいるので救急車を呼ぶことになるという状況が語られる。このあいまいさは、大人になったサクラさんは「笑い話」として距離を置くものの、子どもの頃には抱えることが難しかったものだろう。当時は「死んでいる量」の過量服薬で慌てているが、今から振り返ると「死ぬ気はない」と余裕を持って振り返るのだ。子どもの頃のサクラさんは、母親の希死念慮と過量服薬によって自宅に閉じ込められ、逃げ場を失っていたと推量できる。