その人は明治30年(1897)に上海に密航後、消息不明になったが、「身が軽く、サーカスもやれたかもしれない」という話だった。さらにベネズエラの現地取材でも、「天草出身の日本人が主宰するサーカス団一行が山越えしてベネズエラにやって来た」という証言が得られた。

 トモウラの4文字は「ウラモト」を入れ替えたものと解釈できる。当時日本人の居住が許可されていなかったベネズエラで生きていくために、偽名を使ったのではないか?という結論に落ち着いた。調査結果を聞いたマルカーノは「やっぱりそうか。ますます日本が好きになった」と大喜びだった。

 日本で通算打率.287、232本塁打、817打点を記録し、ダイヤモンドグラブ賞も4度受賞した優良助っ人は、純粋な日本人以上に義理人情に篤いナイスガイでもあった。

 阪急時代の78年6月10日の日本ハム戦、エース・山田久志がリリーフした場面でサヨナラ負けにつながる一塁悪送球を演じたマルカーノは試合後、「ヤマ、スマナイ……。ゴメンナサイ」と泣きながら謝ったという。

 山田も「20年間の現役生活で、外国人選手の涙を見たのは、あとにも先にもこのときだけ。私にとって最高の助っ人です」と、帰国後に39歳の若さで他界した愛すべきチームメイトを讃えている。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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