3年前の韓国旅行で余った紙幣を入れていた袋に、交通カードともいわれるTmoneyカードが入っていた。これは日本でいうSuicaなどのICカードに似たカードで、電車に乗るときはリーダーにかざせばいい。
はたしてこのカードに、どのくらいの金額が入っていたのかもまったく思い出せない。さらには残額の調べ方やチャージの方法なども。
コロナ禍で消えていった様々な記憶を必死に手繰り寄せていく。入国してから、市内に向かう電車に乗るまでに2時間近くかかってしまった。
最初に向かったのは梨泰院。あの惨事が起きた現場を見ておきたかった。
2022年10月29日。ハロウィーンで集まった人たちが狭い路地に密集し、押されて倒れた人たちの上にさらに人が倒れて重なり、日本人2人を含む158人が犠牲になった。
地下鉄の梨泰院駅で降り、1番出口に向かった。事故が起きた路地は1番出口に近いと聞いていた。地上に向かう階段を上った。
「ん?」。両側の壁におびただしい数の紙が貼られていた。そこには韓国語で、犠牲者へのさまざまな思いがつづられている。事件から2カ月が過ぎていても、この階段のまわりだけ重い空気が漂っているように感じた。
言葉が出ない……。158人の命の重さがずっしりと壁に貼りついている。
階段を上りきったところで、通訳兼案内のソウル在住の日本人Yさん(42)と待ち合わせていた。
「この階段、ちょっと怖いですよね。亡くなった方の霊が迫ってくるようで。今日も別の階段を通ってきたんです」
そういわれて振り返る。あえて気にしないようにしているのか、中年男性が駆けるようにして降りていく姿が見えた。
事故のあった路地は、1番出口の目と鼻の先だった。出口を出たところがハミルトンホテルで、その壁に沿った路地だ。坂になっている路地の下に立ち、上の方を見上げた。思わず「短かい」と口走ってしまった。
巻き尺をもっていないので、歩数で路地の幅と長さを測ってみた。身長172センチほどの僕の足で、幅は4歩ほど。長さは64歩。仮に犠牲になった158人がここを歩いたら、もうそれだけでいっぱいになってしまうのではと思った。