哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
* * *
「週刊ポスト」の嫌韓記事問題について「小学館とはもう仕事をしない」と書いたら、「言論の自由を弾圧するのか」というお門違いな批判を浴びた。残念ながら私には言論の自由を弾圧するような力はない。たしかに「黙らせたい」と思うような非道な言葉がメディアを行き交っているのは事実だが、私にはそれを禁圧する力はないし、仮に力があっても、その行使を自制する。
勘違いしている人が多いが、「言論の自由」というのは、心に思っていることを(思っていないことでも)人は好きなように口にする権利がある、というような底の抜けた放任主義のことではない。
「言論の自由」というのは、さまざまな人がそれぞれの思いを自由に口にできる環境では、長期的には、真理をより多く含む言説が淘汰圧に耐えて生き残るという歴史の審判力に対する信認のことである。長いタイムスパンをとった場合、集団はだいたい「よりまともな方向」に進化するはずだという楽観のことである。もちろん短期的、局地的には「退化」や「劣化」のプロセスをたどることもある。けれども、一定時間が経てば、間違いは修正され、行き過ぎは抑止される。
「言論の自由」という観念は、言論が行き交う場の審判力を信じるという決意に裏づけられてはじめて生気づけられる。すべての人が自由に語る権利を行使できるならば、最終的には、時代を超えて語り継がれるべき重く深い言葉だけが残り、空疎で薄い言葉はかき消えてゆくという信念だけが「言論の自由」という観念に命を吹き込む。私はそう信じている。理論的にはそうあって欲しいし、経験的にはこれまでそうだった。
真理のみに表現の自由は許されるべきだ、というような無理なことを言っているわけではない。「たとえ偏見に満ちており、事実認識に誤りがある言説でも、端的に嘘でも、空語でも、妄想でも、人はそれを自由に口にする権利がある」というふうに「言論の自由」を浅く理解している人には、そうすることであなたは自ら言論の自由の原理を汚し、それに託された願いを否定しているのだと告げているだけである。
※AERA 2019年9月23日号